2020年06月01日

目黒通り その十六 元競馬場(2)

目黒通りの「元競馬場前」バス停の並びに競馬場の記念像がある。
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トウルタソル号と嵌めこまれている。
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台座に説明文が印刻されている。
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文字部分を拡大してみる。
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2020年05月31日

目黒通り その十六 元競馬場(1)

目黒競馬場は1907年(明治40年)から1933年(昭和8年)まで、東京府の目黒村に存在した1周1マイルの競馬場(所在地は現在の東京都目黒区下目黒4-6丁目)。
現在の東京・府中の東京競馬場は目黒競馬場が移転したものである。1907年創設の日本競馬会(1936年設立の日本競馬会とは同名であるが別団体)が設立したが、1910年に東京競馬倶楽部に経営は移った。
山手線目黒駅、東急目黒線不動前駅(開業当時は目黒蒲田電鉄<現: 東京急行電鉄>)、東急東横線祐天寺駅(開業当時は東京横浜電鉄<現: 東京急行>)の3駅とほぼ等距離で、1km余り離れた場所に位置していた。
現在の目黒区下目黒4-6丁目あたりの地図である。元競馬場前バス停や元競馬南泉公園という公園がある。

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元競馬場前バス停。
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元競馬南泉公園です。
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2020年05月30日

目黒通り その十五 国立科学博物館附属自然教育園(2)

現在、コロナ対策で自然教育園は閉鎖されているが、門前を通ると園内樹木の薫り高い匂いが道路まで繰り寄せている。何とも言えない樹木の薫りである。
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自然教育園は江戸時代・高松松平家の下屋敷であり、松平家は徳川御三家水戸徳川家の支系で、親藩・御連枝のひとつ。水戸藩初代徳川頼房の長男松平頼重を家祖とする。
嘉永・慶応「江戸切絵図」(尾張屋清七板)によると以下である。

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2020年05月29日

目黒通り その十五 国立科学博物館附属自然教育園(1)

自然教育園を含む白金台地は、洪積世(20~50万年前)海食によって作られました。
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いつ頃から人が住み着いたかは不明ですが、園内から縄文中期(紀元前約2500年)の土器や貝塚が発見されていることから、この時代には人々が住んでいたと考えられます。

平安時代には目黒川、渋谷川の低湿地では水田が開墾され、台地の広々とした原野には染料として欠かせなかったムラサキの栽培も広範囲に行われていたと考えられています。室町時代に入ると、この地方にいた豪族がこの地に館を構え、今に残る土塁は当時の遺跡の一部と考えられています。この館の主が誰かは不明ですが、白金の地名は永禄2年(1559)の記録に初めてあらわれ、太田道灌のひ孫の新六郎がこの地を治めていたことが記録されています。また、いわゆる「白金長者」であったという言い伝えも残っています。

江戸時代になると、増上寺の管理下に入りましたが、寛文4年(1664)には、徳川光圀の兄にあたる高松藩主松平讃岐守頼重の下屋敷となり、園内にある物語の松やおろちの松などの老木は、当時の庭園の名残であろうと思われます。
明治時代には火薬庫となり、海軍省・陸軍省の管理となり、大正6年(1917)宮内省帝室林野局の所管となり、白金御料地と呼ばれました。
その後、昭和24年文部省の所管となり、「天然記念物及び史跡」に指定され、国立自然教育園として広く一般に公開され、昭和37年国立科学博物館附属自然教育園として現在に至っています。

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2020年05月26日

目黒川の生き物 その一 蛇

目黒川には様々な生き物がいる。
目黒川は桜で有名だが、この川を観察していると、時に、妙な生き物に出合う。
船入場で蛇が泳いでいた。

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2020年05月25日

目黒通り その十四 ゆかしの杜 港区郷土博物館

2018年(平成30年)11月1日(木曜日)白金台のゆかしの杜に港区立郷土歴史館が開館しました。建物は、昭和13年に建築された旧公衆衛生院の歴史的に貴重な外観や内部の講堂などを保存改修して活用しています。郷土歴史館では、出土した縄文土器やクジラの骨格標本など、本物に触れたり、プロジェクションマッピングやタッチパネルを活用しながら港区の自然・歴史・文化を学ぶことができます。また、ミュージアムショップやカフェもあり、歴史を知り、交流できる施設です。
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2020年05月24日

現在、ゆかしの杜となっている場所は、目黒通りの瑞聖寺の向かい側で、東大医科学研究所の隣に位置している。
この地には旧国立公衆衛生院(The Institute of Public Health)があったが、2002年(平成14年)に改組・廃止された、日本の公衆衛生の向上を目的とした調査研究機関であった。

公衆衛生院の建物および設備は、アメリカ・ロックフェラー財団から日本政府への寄贈である。援助額は当時のお金で総額350余万ドル。世界保健機関 (WHO) は国立公衆衛生院を「School of Public Health(公衆衛生大学院)」として紹介している。

2002年(平成14年)4月1日付けで組織が改組され、国立感染症研究所の一部などと共に国立保健医療科学院となり、多極分散型国土形成促進法により現在は埼玉県和光市に移転している。

旧建物は文化財的価値から保存され、ゆかしの杜として2018年にオープンした。
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2020年05月23日

目黒通り その十二 東大医科学研究所

安政3年(1856)古地図で見ると、瑞聖寺の向かい側辺りが東大医科学研究所である。
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東京大学医科学研究所のホームページに、以下のように紹介されている。

「明治25年(1892年)に北里柴三郎博士により設立された大日本私立衛生会附属伝染病研究所を前身とし、昭和42年(1967年)に医科学研究所に改組されました。この明治、大正、昭和、そして令和へと受け継がれてきた128年の歴史を背景に、医科学研究所は生命現象の普遍的な真理と疾患原理を探究し、革新的な予防法・治療法の開発とその社会実装による人類社会全体への貢献を目指しています。そのために、情報科学、理学、工学、農学、薬学、医学、倫理・公共政策学などの様々な学問が「医科学」をキーワードとして互いに触発して発展する自由で学際的な研究環境を重視し、個々の研究者や医療者が、それぞれの知的好奇心に突き動かされて行う独創的な研究、技術開発、先端医療を推進しています」

「具体的には、感染症やがん、免疫・神経・筋疾患などの難治性疾患の制圧を目指し、ゲノム医学、再生医学、疾患モデル動物などを課題とするプロジェクト型研究を展開すると共に、遺伝子・ウイルス治療や細胞治療、ワクチン開発、AI医療等の先端医療開発を推進しています」

「以上の課題を達成するために、医科学研究所には自由な発想に基づく基礎・橋渡し研究を推進する基幹研究部門として基礎医科学部門、癌・細胞増殖部門、感染・免疫部門の3部門が設置され、また、多様な研究成果の社会実装に必要な最重要課題に取り組むセンター・施設として、生命科学に特化した国内最大の演算性能をもつスーパーコンピュータ(SHIROKANE)を擁するヒトゲノム解析センターや先端医療研究センター等の8センター、5研究施設が設置されています」

「さらに、国立大学附置研究所では唯一の附属病院では、世界トップレベルの研究成果に基づく臨床試験や先端医療が進められています。その上に、昨年、我が国の附置研究所の中で、生命科学系では唯一の国際共同利用・共同研究拠点に認定され、世界的な枠組みでの基礎・臨床研究が加速されています」

「現在、本体である白金台キャンパスに加え、アジア感染症研究拠点(北京)や奄美病害動物研究施設(奄美大島)等にも教職員を派遣するなど、本学大学院の8研究科に所属する200名超の学生を含め、1,000名を超える教員、事務・技術・病院職員、研究員等が活躍しています」

大規模な研究所ということが分かる。

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2020年05月22日

目黒通り その十一 瑞聖寺(3)

瑞聖寺の庫裏は隈研吾の設計です。
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庫裏は、中央の水盤を囲むようにコの字型に設計されている。これは開かれた寺院をイメージしての配置とのこと。
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水盤の上でイベントを行ったりすることもあるとのこと。

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2020年05月21日

目黒通り その十一 瑞聖寺(2)

瑞聖寺の大雄宝殿および通用門1棟は昭和59年(1984年)東京都指定有形文化財に指定され、平成4年(1992年)に国の重要文化財に指定された。
現在は寺の北側の目黒通り側が境内入口になっているが、本来こちらは裏門で、寺の東側が正式の入口であった。
もと目黒通り側にあった高麗門形式の旧通用門(重要文化財の附指定)は、明治時代に東側に移築されている。
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東側の道路は八芳園に面しており桑原坂の表示がある。

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2020年05月20日

目黒通り その十一 瑞聖寺(1)

瑞聖寺は寛文10年(1670)に創建された。開山(初代住持)は日本黄檗宗2代の木庵性瑫である。木庵は日本黄檗主の祖・隠元隆琦の招きで明暦元年(1655年)に中国・明から来日し、寛文5年(1665年)に江戸入りした。開基(寺院創設の経済的基盤を提供した人物)は摂津麻田藩(大阪府豊中市)の2代藩主・青木重兼である。重兼は黄檗宗に深く帰依し、晩年には家督を譲って出家している。江戸時代には江戸の黄檗宗の中心寺院として「一山之役寺」と呼ばれていた。
江戸名所図会によると山門・天王殿・大雄宝殿・禅堂等を備えた巨刹であったが、文政年間に大規模な罹災あう。現大雄宝殿は高輪下馬将軍として名高い薩摩藩主・島津重豪により扁額を与えられる共に再建されるに至る。

安政3年の下図で示されている。
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2020年05月18日

目黒通り その十 聖心女学院(3)

細い道に聖心女学院の案内ポールが立っている。

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この案内ポールの奥が聖心女学院であるが、用事のない人は入らないよう掲示されている。
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2020年05月17日

目黒通り その十 聖心女学院(2)

聖心女学院は「すぐ先の角を左折400㍍先」と書かれている。

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すぐ先の角とは以下である。

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細い道は30メートルくらい先で右に折れる。

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右に折れた先はずっと奥まで続いている。

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2020年05月16日

目黒通り その十 聖心女学院(1)

目黒通りの日吉坂に聖心女学院への道筋が小さく表示されている。
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2020年05月15日

目黒通り その九 八芳園

八芳園は東京都港区白金台に所在する、1万2000坪の敷地内に庭園のあるレストラン・結婚式場である。明治学院大学、シェラトン都ホテル東京と近接している。庭園の名称は「四方八方どこを見ても美しい」に由来する。
江戸時代前期には譜代の江戸幕府旗本・大久保忠教(彦左衛門)の屋敷(但し、現在の園全域ではなく一部が彦左衛門の屋敷地)であったが、その後薩摩藩の抱屋敷、島津氏(松平薩摩守)の下屋敷を経て、明治時代に渋沢喜作の手に渡る。

以下の安政3年時地図で、松平薩摩守斉彬とあるのが八芳園の土地。
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1915年(大正4年)、実業家・久原房之助邸宅時に現在の建物と庭園が整備された。戦後久原(当時公職追放中)は、銀座や築地で料亭などの経営を手がけていた長谷敏司に、海外からの旅行者(賓客)向けに、日本庭園を生かした本格的な料亭の共同経営を持ちかけ、自ら「八芳園」と命名し1950年(昭和25年)に創業。数年後全面的に長谷側の所有となり、経営が本格化した。現在の八芳園は株式会社八芳園により運営され、結婚式場やパーティなどにも広く利用されている。
入口の表示
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門はコロナウィルスで閉鎖されている。
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桑原坂に面している。
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2020年05月14日

目黒通り その八 シェラトン都ホテル東京

シェラトン都ホテル東京は、旧藤山愛一郎(元外務大臣・国務大臣経済企画庁長官・日本商工会議所会頭・東京商工会議所会頭・日本航空初代会長等を歴任)邸跡地である。
建物は、世界貿易センタービルなどで知られるアメリカの建築家ミノル・ヤマサキの設計。内装と庭園は日生劇場などで知られる村野藤吾の設計であったが、2000年以降の改装により村野のデザインの大部分は失われ、低層階(地下2階〜1階)の内装の一部や階段等にその名残りを残すのみである。
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1996年にカールソン・ホテルズ・ワールドワイド(現:カールソン・レジドール・ホテルズ)と提携し、英語名のみをRadisson Miyako Hotel Tokyoとした。
その後2003年には日本語名もラディソン都ホテル東京と改称したが、2007年には、カールソンとの提携を解消すると同時にスターウッド・ホテル&リゾートと提携し、2007年4月1日シェラトン都ホテル東京と改称した。

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2020年05月13日

目黒通り その七

清正公前交差点を目黒通り入って歩くと「シェラトン・都ホテル」がある。
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「シェラトン・都ホテル」がある場所を安政3年(1856)時の江戸地図『復元・江戸情報地図』(朝日新聞)で表示する。
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2020年05月12日

目黒通り その六 大石内蔵助切腹の場所

目黒通りに面していないが、覚林寺前の桜田通りを渡って天神坂の急坂を上りきり、左に歩いていくと都営高輪アパート団地があり、その建物の間に以下の石碑が建っている。
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この先に入って行くと東京都教育委員会の指定旧跡板がある。
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さらに「赤穂義士史跡碑」もある。
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17名の義士の名前も表示されている。
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実際に切腹した場所は以下である。門があって中には入れない。
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2020年05月11日

目黒通り その五 山手七福神巡り出発寺 覚林寺

覚林寺は「江戸山手七福神」巡りのスタート地点でもある。
「江戸山手七福神」は江戸最初といわれ江戸城の裏鬼門守護のため、将軍の鷹狩りの際に参詣した「目黒の不動堂(瀧泉寺)」の参詣道筋に設置された江戸時代から続く、江戸最初の七福神巡りである。
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巡り方でご利益の中身が違ってくると言われている。
下図の□内の寺院(恵比寿神・弁財天・大黒天)から、〇内の寺院(福禄寿尊・寿老人尊・布袋尊・毘沙門天)へお参りするのを「商売繁盛祈願」、また、〇から□へお参りするのを「無病息災・長寿祈願」のご利益としている。
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2020年05月10日

目黒通り その四

下図は目黒通り出発地点の清正公前あたりの地図である。
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清正公前交差点信号
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目黒通り標識板
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覚林寺の山門と本堂
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2020年05月09日

目黒通り その三

前回の掲載、明治4年(1871)の吉田屋文三郎「東京大絵図」、これは江戸切絵図の流れを汲む最後のもので紹介したが、別の地図、安政3年(1856)時の江戸地図『復元・江戸情報地図』(朝日新聞)で見てみたい。
まず、目黒駅あたりである。
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森伊豆守、播州三日月藩の辺りが目黒駅。ここから地図最後の瑞聖寺まで目黒通りが上図で描かれている。
瑞聖寺から清正公前交差点の覚林寺・清正公近辺の地図は以下である。

安政3年地図2 (2).jpg
これでも覚林寺・清正公近辺がよくわからないので、絞って表示してみる。白金台町一丁目のところになる。
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2020年05月08日

目黒通り その二

目黒通りの始まり地点は港区白金台の桜田通りの清正公前交差点。終点は世田谷区玉堤の多摩堤通りに至る延長10kmの都道である。
明治4年(1871)の吉田屋文三郎「東京大絵図」、これは江戸切絵図の流れを汲む最後のもの。
維新直後の東京は諸大名が国元に去り、旗本・御家人が離散し、武家に生計を依存していた町民層も困窮、火の消えたような状況だった。
江戸時代の最盛期には130万人に達していた人口は、明治4年には58万人弱に激減した。
この当時の切絵図だが、目黒通りの位置付けは明確に描かれている。
以下の地図は前回紹介した目黒駅あたりから、清正公前交差点の覚林寺・清正公近辺のもの。
当時はすぐ傍まで海が近くに迫っていた。

明治4年2 (2).jpg
上図の森對馬屋敷辺りが現在の目黒駅近辺、そこから白金一丁目まで目黒通りを海方向に向かうと、覚林寺・清正公がある。この部分地図が以下で、白金一丁目から曲がる角が覚林寺である。
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2020年05月07日

目黒通り その一

目黒駅近くの古地図を紹介する。この地図は尾張屋板江戸切絵図で嘉永7年(1854)に発行され、下の切絵図は安政4年(1857)に改版したものである。
安政4年といえば下田条約が結ばれた年で、5月26日に、アメリカ総領事ハリスが、日米修好通商条約の前段階として、下田にて締結した9か条の日米約定(日米追加条約)のことである。
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権之助坂を上ったところが目黒駅。古地図でいうと森伊豆守、播州三日月藩(兵庫)一万五千石の家紋(以下)が印字されているすぐ上のあたり、行人坂を上ったところである。
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2020年05月06日

目黒火薬製造所 その三

目黒区役所ホームページに「歴史を訪ねて」として2013年10月1日に掲載されている内容を続ける。

(再び移転)
もともと目黒には産業といえるほどのものはなかったが、それでも明治初期以来、灌漑(かんがい)用の三田用水を利用して精米・製粉をする水車は少なくなかった。水車の数は明治40年には、大崎、目黒を中心に49カ所に上る。日本麦酒や火薬製造所などの大工場も、動力源として、また、生産の過程で、大量の水を必要としたため、三田用水を利用できることを前提に、ここに設立されたわけで、目黒の工業の発展の歴史は、同時にまた、三田用水が農業用水から工業用水に変わってゆく過程でもあった。

そんななかで、火薬製造所と村民の間に、しきりに水争いがくり返されるようになる。三田用水組合文書には、明治24年、目黒村民がこぞって製造所の多量の用水使用を府知事に訴え出た記録が残っている。
しかし、昭和に入って、目黒に人家が増え、商店・工場も建てられると、火薬製造が危険ということで、昭和3年、幕営時代から70年余、三田にあった火薬製造所もついに群馬県岩鼻村へ移転することになる。目黒の工業化の元祖ともいうべき製造所が、他の工場などの進出によって追い出されたわけである。
火薬製造所跡地の大部分は、海軍技術研究所を経て、現在、防衛省防衛研究所となっている。

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三田用水と茶屋坂隧道跡表示

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2020年05月05日

目黒火薬製造所 その二

目黒区役所ホームページに「歴史を訪ねて」として2013年10月1日に掲載された内容を続ける。

(明治期に発展)
明治維新後、新政府は、内乱の鎮圧と対外進出に備えて兵器・火器の補強を図るため、新たに火薬製造所の建設場所を捜していた。
そして、白羽の矢が立ったのが、旧幕営砲薬製造所跡の目黒の三田村である。三田村が2度も火薬製造所に選ばれたのは、目黒川・三田用水・豊富な湧水など水利に恵まれ、茶屋坂上の高台から目黒川にかけての傾斜地が、火薬生産に必要な鉄製水車を回すのに適していたからである。

明治12年、田畑をつぶして道路を開き、水路工事に反対する村民の抵抗をしりぞけて三田用水に玉川上水をひき入れ、翌年、東西1町16間、南北4町10間、面積2,000坪に及ぶ目黒火薬製造所が完成した。
ドイツ製の設備を導入し、ドイツ人を製造技師に迎えて、明治18年、いよいよ操業を開始。製造した火薬は、海軍や鉱山用に使われて、生産額もしだいに増加した。

明治26年、海軍省の管理から、陸軍の東京砲兵工廠こうしょうへ移管された。
日清戦争が始まると、軍用火薬の需要が増大したため、目黒火薬製造所は、隣接の土地を買収して建物10棟、機械30台を増設したが、終戦とともに需要が減り、拡張した設備や労働力の整理に苦しむことになる。

そんななかで、日露戦争が勃発。火薬製造は再びブームを迎え、夜を徹して増産につぐ増産が行われた。そして、終戦。目黒火薬製造所は、小銃・山砲・野砲用などの軍用火薬ばかりでなく、鉱山火薬・猟銃用火薬などを一手に引き受けて、独自に発展の道をたどる。
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一万分一地形図東京近傍十三号(大正5年大日本帝国陸地測量部発行)

明治時代の二大戦争によって成長した目黒火薬製造所は、明治44年、それまでの水力および蒸気による動力を、渋谷発電所から供給される電力に切り換えるなどの近代化を行った。大正6年、職工数は男女合わせて367人を数えた。当時目黒で100人以上の規模を持つ工場は、日本麦酒のみであった。

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2020年05月04日

目黒火薬製造所 その一

目黒火薬製造所については目黒区役所ホームページに「歴史を訪ねて」として2013年10月1日に掲載されている。
 「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものである。
(江戸時代)
「同時二十六日昼、四半よつはん時頃、荏原郡目黒在三田村、合薬(鉄炮に用ふる所の品なり)の製所に、過って火を発す。其響四、五里に聞えたり。即死・怪瑕の者七十余人といふ」
江戸時代末に刊行された「武江年表」の、文久3年(1863)9月26日の項の一節である。
ペリーをはじめ諸外国船の来航、尊王攘夷勢力の過激な反幕運動など、幕末の深刻な政情不安は、江戸近郊の平和な農村だった目黒にも及んできた。幕府が三田村に建設した砲薬製造所の数回にわたる爆発の記録にも、その様子がうかがわれる。

(幕末に設立)
安政4年(1857)、幕府は、軍事上の必要から三田村の新富士辺より一軒茶屋上、広尾水車道までの約4万坪の地域に、それまで千駄ヶ谷にあった焔硝蔵えんしょうぐら(火薬庫)を移転し、さらに中目黒村内の三田用水より上目黒村・中目黒村・下目黒村の田んぼへの分水口下に、砲薬調合用の水車場を建てる計画を打ち出した。
もちろん、村民らは火薬の爆発を恐れたが、お上の言うことには逆らえない。しぶしぶ承知する代わりに、用水の分水口を村の決めた所に作ること、地代金を支払うことを幕府に認めさせた。こうして目黒砲薬製造所がつくられ、幕府の軍事力強化に一役買ったのである。

「武江年表」とは
『武江年表』(ぶこうねんぴょう)は、斎藤月岑が著した江戸・東京の地誌。「武江」とは「武蔵国江戸」の意。徳川家康が江戸城に入った天正18年(1590)から明治6年(1873)までの市井の出来事が編年体で纏められている。正編が嘉永3年(1850年)、続編が明治15年(1882年)に出版された。
 火事・地震などの天災や気象情報、町の存廃、幕府の布告、著名人の死去、開帳などの催事や流行り物、その他の時勢が網羅され、江戸・東京の歴史を知る上で欠かせない史料である。

文久3年(1863)9月26日の「武江年表」記載内容
上京途中の島津久光の一行が豊後国鶴崎より海路兵庫に向かう。
天誅組の水郡英太郎が和歌山に到着し、倉ケ谷の牢獄に入る。
天誅組が遁走する。天誅組の中山忠光ら一行7人は、桜井から2Kmばかり東北の三輪山の麓に潜伏していた。
昼四半時頃、江戸荏原郡目黒在三田村合薬(鉄砲に使用)の製造所で誤って火を発する。その響き4、5里に聞こえる。即死、怪我人70余人と云われる。
新選組に潜入していた長州の間者御倉伊勢武、荒木田左馬之允、楠小十郎の3人は、新選組屯所の前川邸で斬殺され、越後三郎(松山良造)、松井龍三郎、松永主計の3人は脱走する。
オールコックが日本に帰任する際、ラッセル外相から与えられた一般的な訓令で下関遠征関連では
第6項
提督が海兵隊を上陸させて、我々の商船の通航を妨害する明白な目的をもって建設され、しかもなんらかな敵対的な行動によって、その敵対的な意図をあきらかにした砲台を破壊することが望ましいと考えた場合、提督は貴下の同意をえて、それを実施する権限を有すること。
第7項
しかし、その敵対的な意図が敵対的な性質をもつ行動によって明確にしめされないかぎり、貴下は砲台の破壊をくわだてるべきではなく、提督もそれを命ずる権限を有しないこと。
木村摂津守喜毅が、城中において、矢田堀が代理で、老中より「願之通御役御免の旨」正式に言い渡される。木村摂津守喜毅が軍艦奉行を退く。
 

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2020年05月03日

東京都庭園美術館 その十 白金火薬庫

明治13年(1880)から昭和3年(1928)にかけて、目黒区三田には東京砲兵工廠所管の目黒火薬製造所という軍需工場があり、また、目黒火薬製造所から山手線の線路を挟んだ東側の白金台には、白金火薬庫という陸海軍の火薬倉庫があった。
東京砲兵工廠目黒火薬製造所は目黒の都市化とともに昭和3年(1928)、群馬県岩鼻村へと移転し、跡地には海軍技術研究所が入って艦の設計や技術開発などが行われるようになり、その流れで今は防衛省艦艇装備研究所となっている。
この地の主管が陸軍から海軍に変わる数年前の大正6年(1917)、火薬の運搬先であった白金火薬庫が陸軍省から宮内省へと委譲され白金御用地となり、白金火薬庫軍用線はその役目を終えたものと思われる。
火薬庫の残照が遺っていると言われている写真が以下で、茶屋坂児童公園の近くにあるという。

陸軍用地.jpg

明治期から大正期にかけて、目黒は火薬製造の町だったとは!!
その白金火薬庫の一部に朝香宮邸があり、今は東京都庭園美術館になっているとは!!

以下は防衛 研究所戦史研究センター資料から引用したものである。
目黒火薬製造所写真.PNG
「東京砲兵工廠目黒火薬製造所」敷地図 

現在の防衛研究所が所在する目黒地区は、明治 11 年に海軍の火薬製造所として建設が 進められて明治 18 年に完成したのち、明治 26 年に陸軍へ引き継がれて砲兵工廠所轄の目 黒火薬製造所となった。そして、軍用火薬や坑山用火薬の製造及び貯蔵を行い、明治 26 年度は 12 万kgでしかなかった火薬製造量は、順次、設備の拡充に努めた結果、明治 30 年度には 55 万kgに達した。 その後、大正 12 年に発生した関東大震災の影響で、設備は他へ移転して目黒火薬製造 所は廃止されることとなり、替わって海軍技術研究所が築地から移転した。 写真の敷地図は、明治 31 年頃に作成されたものであり、現在の学校地区はまだ用地買 収されていないことから、図には描かれていない。なお、防衛研究所が位置する部分には、 火薬製造所の本部事務所が建てられていたことがわかる。(「文庫-千代田史料-672」、防衛 研究所戦史研究センター史料室蔵)


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2020年05月02日

東京都庭園美術館 その九 朝香宮鳩彦王(3)

『郷土随筆 目黒界隈』(富岡丘蔵著 とみおか・きゅうぞう 昭和36年 梢書房)がある。著者の富岡氏は目黒区史編集委員などを務めた方である。
ここに「白金迎賓館」について説明しているので紹介する。

≪自然教育園に隣りまして、白金迎賓館があります。これもやはり元白金火薬庫の一部で、皇室御料地となってから、朝香邸が造られ、それが戦後国有になり、首相公邸の一つになりました。吉田さんが総理の頃、盛んに目黒公館を使ったことを新聞が報じていましたが、いったいどこかと思ったのは、ここであったのです。今は政府の迎賓館になっています。広大にしてしかも静かな環境広々とした芝生の庭、首相官邸に似たりっぱな洋館、外交の派手な吉田さんが、好んで使用したのも無理はないと思います。
とにかく、国際的のもので、私どもにはちょっと近よりがたいところ、参観などは、もってのほかとあります≫

上の中で「元白金火薬庫の一部」と書かれているのは、明治八、九年頃から大正二年まで、陸軍の白金火薬庫として使われていたことを意味している。

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2020年05月01日

東京都庭園美術館 その八 朝香宮鳩彦王(2)

朝香宮鳩彦王は明治20年(1887)、久邇宮朝彦親王の第8王子として生まれ、明治39年(1906)に朝香宮家を創設。「朝香」の名は明治天皇より賜ったもので、父・朝彦親王が伊勢神宮祭主を務めていたことにちなみ、伊勢国朝香山から採られた宮号である。明治43年(1910)に明治天皇皇女允子内親王と結婚する。

その後、大正11年(1922)にフランスに留学するが、翌年、義兄の北白川宮成久王の運転する自動車が交通事故を起こし、この事故で成久王は薨去。同乗していた鳩彦王は重傷を負う。怪我の療養のためフランス滞在が長引いたことで、フランス文化により長く触れることになった。特に、看病のため渡仏した宮妃とともに大正14年(1925)のパリ万国博覧会(アール・デコ博)を観覧し、同様式に対して強い関心と理解を示した。
後の昭和8年(1933)に完成した東京都港区芝白金台町の朝香宮邸(現・東京都庭園美術館)は日本の代表的なアール・デコ建築とされている。
下の写真は完成当時の朝香宮邸である。
朝香宮邸完成当時の.jpg
昭和22年(1947)、GHQの命令により皇籍離脱。公職追放を受けた。また、朝香宮邸を外務省に有料で貸し出し、これは外務大臣公邸として一時期事実上の総理大臣公邸の役割を担っており、「目黒公邸」とも呼称された。
東京裁判や南京裁判などで、上海派遣軍司令官として南京事件で「捕虜の殺害命令」に関与した疑いでGHQから戦犯に指名される可能性があったが、皇族として戦犯指定は受けなかった。
熱海の別荘に居を移して株式投資などのほか、ゴルフ三昧の悠々自適な生活から「ゴルフの宮様」として知られた。数多くのゴルフクラブの会長・名誉会長を務めたが、その中で昭和5年(1930)に鳩彦王が名誉会長を務める「東京ゴルフ倶楽部」が埼玉県に移転した際、移転先の膝折村が朝香宮にちなんで昭和7年(1932)5月1日に朝霞町(現朝霞市、宮号をそのまま使うのは畏れ多いとして一字を替えた)と改称されている。

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2020年04月30日

東京都庭園美術館 その七 朝香宮鳩彦王(1)

朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう)、明治20年(1887) -昭和56年(1981)、または朝香鳩彦(あさか やすひこ)は旧皇族で、旧陸軍軍人。久邇宮朝彦親王の第8王子で朝香宮初代当主である。
1947年(昭和22年)10月14日に皇籍離脱している。允(のぶ)子(こ)妃殿下は明治天皇の第八皇女である。
昭和天皇のお妃であった香淳皇后は、久邇宮邦彦(くにのみや くによし)王の第1女子良子(ながこ)女王である。
久邇宮邦彦王と朝香宮鳩彦王は兄弟であるから、朝香宮鳩彦王は香淳皇后の叔父に当たる。

幕末以来つづいた宮家はそれほど多くない。『東京の地霊』(鈴木博之著 ちくま学芸文庫)を参照して述べたい。
一般の四親王家といわれる宮家がある。これは世襲親王家とも称され、南北朝時代から江戸時代の日本の皇室において、当代の天皇との血統の遠近にかかわらず、代々親王宣下を受けることで親王の身位を保持し続けた四つの宮家をいう。
最初の世襲親王家とされる伏見宮、その後、天正17年(1589)に桂宮(当初は八条宮)、寛永2年(1625)に有栖川宮(当初は高松宮)、宝永7年(1710)に閑院宮が創設され、最終的に世襲親王家は四家となった。
だが、桂宮家は明治14年に、有栖川宮家は大正12年に、それぞれ絶えてしまうが、明治に入ってからつぎつぎに宮家が創設された。
明治元年(1868) 華頂宮(かちょうのみや)
山階宮(やましなのみや)
明治3年(1870) 北白川宮
         東伏見宮
         梨本宮
明治9年(1876) 久邇宮
明治25年(1892) 賀陽宮(かやのみや)
明治39年(1906) 朝香宮
         竹田宮
         東久邇宮
明治43年(1910) 李王家(二家) 〔王族〕

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2020年04月29日

東京都庭園美術館 その六 ルネ・ラリックと朝香宮

池田氏まゆみ氏(美術工芸史家)の『ルネ・ラリック――情熱、野心、創造』(国立新美術館 MOA美術館 東京新聞2009年「ルネ・ラリック」図録)は、ラリックと、東京・白金台にある東京都庭園美術館についてもふれる。

≪「アール・デコ博覧会」の成功から、ラリックのガラス製品は博覧会の名称から命名された様式「アール・デコ」の代名詞となった。彼のもとにはインテリア関係の依頼がいくつも寄せられた。その一つに、東京の朝香宮邸に納められた内装品がある。パリで「アール・デコ博覧会」を訪れた朝香宮鳩彦(やすひこ)王と允(のぶ)子(こ)妃殿下は、帰国後東京白金に新宮殿を建設した際、本格的なアール・デコ様式を望まれ、フランスの装飾家アンリ・ラパンに内装の主要部分を委嘱した。現在東京都庭園美術館として公開されている旧宮邸(竣工1933年)には、ラリック製のガラス・レリーフ扉や照明器具などか保存されている≫(17頁)
 ラリックが日本でもガラス文化として認められた証明が、東京都庭園美術館のガラス・レリーフなのである。
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2020年04月28日

東京都庭園美術館 その五 ルネ・ラリック

前号に続き池田まゆみ氏(美術工芸史家)の『ルネ・ラリック――情熱、野心、創造』(国立新美術館 MOA美術館 東京新聞2009年「ルネ・ラリック」図録)の記述を紹介する。

≪彼についてしばしば尋ねられる質問がある。すなわち、①「ジュエリー制作から、なぜ”突然”ガラスに移行したのか」、②「これらの作品をすべて一人で制作したのか」、③「これだけの作品を生み出したラリックは、どのような人物であったのか」という問いである≫(8頁)

質問項目①と②については前号で述べた。そこで、次に質問③項目、「これだけの作品を生み出したラリックは、どのような人物であったのか」について見てみたい。これについては、以下の記述である。

≪「小柄でがっちりした体格、黒く燃える瞳。顔つきは力強さと優しさ、快活さを示している。並外れた魅力の持ち主で、それは優雅な物腰からきていた。女性に対しては、まるで宝物でも扱うように接していた。(…)かと思うと、ラリックには荒々しい面もあり、ラリックの内には激しく憤るもう一人別の男が潜んでいた。母〔訳注:娘シュザンヌ・ラリック〕は幼い頃、怒りに猛りに狂い会計係のムッシュー・パスキネを階段から突き落とすところを見たという。また、男としてアーティストとして生涯にわたり、束縛を嫌った。そして、自分が何かを始めるときには、必ず事前に他人の行いを慎重に研究していた。思いつきやハッタリを嫌い、偶然よりも忍耐を信じ、確信を持てた時に初めて行動を企てた」。孫娘マリッチ・アヴィランドが回想するラリックの素顔である。彼の人物像をこれほど端的に伝える言葉はないだろう≫(9頁)

 次にラリックが世界で認められた「アール・デコ博覧会」について述べる。

≪第一次世界大戦は過去のヨーロッパ社会の終焉を意味していた。古きよき時代は終わり、活気に満ちた大衆社会が新たに広がり、機械文明の浸透でそれまでにない変革の時代を迎えていた。パリには自動車があふれ、電灯の普及が夜の生活を一新し、新しい消費社会が広がりをみせる。1920年代はラリックのガラス工芸活動が最も充実した時代だった。一握りのエリートに向けたジュエリー制作から量産可能なガラス工芸への転換は時代の要請でもあった。パリ郊外の工場が手狭になったラリック社では、アルザスのヴィンゲン=シュル=モデールに新しい工場を開設して生産規模を拡大した。
 1925年のパリでは大戦後の産業の復興を期して、新時代のニーズに適応したデザインを集めた国際博覧会「現代装飾美術産業美術国際博覧会(通称「アール・デコ博覧会」)が開催された。かねてからガラスを活用した総合的な空間演出に新しい可能性を見出していたラリックは、博覧会の会場を舞台に大規模なデモンストレーションを実行した。まずメイン会場のアンヴァリッド広場に専用のパヴィリオンを設け、内外装にガラスを用いて光の空間をつくり上げた。展覧会のテーマ「光と水の演出」にちなみ、水辺のイメージで統一されたダイニング・ルームには《ロータス》のグラス・セットが置かれ、《ブドウ》の燭台や照明器具はもちろん、床、天井などすべてにガラスを応用した「光の空間」が演出されていた。噴水の装飾を浮彫りした大きなガラス窓を背景に、《ロータス》のセットはまるで池に浮かぶ生きた花のように、静かなたたずまいを見せている。光あふれる静謐な空間は、博覧会の翌年にオランジュリー美術館に完成したクロード・モネの「睡蓮の間」にも通じる自然の安らぎを感じさせている。
 ラリックの出展のうち最も話題を呼んだのは、コンコルド広場のオベリスクと張り合うかのようにパヴィリオンの正面に立てられた高さ約15メートルの野外噴水塔《フランスの水源》であった。八角形の柱の角にフランスの河川と泉を象徴する16段合計128体のガラス製の女神像を飾り、夕陽が沈むとスポット・ライトに照らしだされて光のモニュメントとなった。噴水は閉会後に撤去されたが、女神像は鋳型を利用して新たに鋳造されて市販された。被り物も両手のポーズも全身を覆う水の表現も1点ごとにデザインを違えているところがラリックらしい。噴水の後ろに位置する「工芸の庭」列柱廊に設けられた2カ所の小屋(しょうおく)のガラス扉《ガラス職人》もラリックの作であった。ラリックはこの他にも、セーヴル館のダイニング・ルーム、グラン・パレ内の香水コーナーの装飾、メイン・ゲート名誉門チケット売り場のガラス装飾を手がけ、アレクサンドル3世橋上のブティック街へも出店した≫(16、17頁)

さらに、池田氏は結論としてラリックの「用の中の美」を主張する。

≪19世紀が夢見た工芸産業への美術の応用「ル・ボー・ダン・リュティル(用の中の美を)」の理想を掲げた工芸家のなかで、ラリックは最も大きな成功をつかんだ一人であった。サロンで最初の成功を収めた1890年代の後半から「アルチスト(芸術家)」と呼ばれたラリックは、工場でのガラスの製造を開始した1909年からは、工場生産に美術を応用した「産業芸術家」として新たな世界に挑戦した。世紀末の「アール・ヌーヴォー」と20世紀初頭の「アール・デコ」、宝飾工芸とガラス工芸、二つの時代と二つの分野で頂点を極めたラリックの人生、そこにある情熱、野心、そして創造には、ものづくりを心の底から愛した一人の芸術家の純粋な魂が息づいている≫(18頁)

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2020年04月27日

東京都庭園美術館 その四 アール・デコとルネ・ラリック

エミール・ガレが亡くなった一九〇四年を境にして、アール・ヌーヴォー運動は急速に衰えていったが、その頃に台頭してきたのが、パート・ド・ヴェールの技法を使うアージー・ルソーとフランソワ・デコルシュモン、彫金作家から転向したルネ・ラリック、フォーヴィズムの画家から転向したモーリス・マリノなどであった。

『ガラス入門』(由水常雄著 平凡社 1983年)が述べる。
 ≪アール・デコとはアール・デコラティーヴ(装飾美術)の略でアール・ヌーヴォーのあとを受けて、一九一八年の第一次世界大戦から、第二次世界大戦の始まる一九三九年頃にかけて展開した現代的な美術様式である≫(151頁)
 この時代に登場したのが、後に香水瓶で一世を風靡するルネ・ラリックである。そこで次にラリックについて検討したい。

ラリックについては様々な文献があるが、その中から池田まゆみ氏(美術工芸史家)の『ルネ・ラリック――情熱、野心、創造』(国立新美術館 MOA美術館 東京新聞2009年「ルネ・ラリック」図録)から見てみよう。

≪彼についてしばしば尋ねられる質問がある。すなわち、「ジュエリー制作から、なぜ”突然”ガラスに移行したのか」、「これらの作品をすべて一人で制作したのか」、「これだけの作品を生み出したラリックは、どのような人物であったのか」という問いである≫(8頁)
この質問2項目は、
① 「ジュエリー制作から、なぜ”突然”ガラスに移行したのか」
② 「これらの作品をすべて一人で制作したのか」
であるが、これについて池田氏は以下のように解説している。

≪ラリックにおけるジュエリーからガラス工芸への移行は1900年から1910年の間に行われた。この時期彼はジュエリーの創作を手がけながら、ガラス工芸への転向を模索したのだった≫(15頁)
≪ラリックはなぜジュエリーを離れてガラスに向かったのだろうか。ラリックのジュエリーを特徴づけるエナメル(七宝)はガラスの一種に他ならず、ガラスはラリックにとって決して新しい素材ではなかった。ラリック様式(ジュエリーのアール・ヌーヴォー)が芽生え始めた1890年から、すでにテレーズ通り20番地の工房には小型のガラス窯があり、彼はガラスと格闘していた。そこで制作されたガラスの小品は、ジュエリー作家として初出品した1895年のサロンに出品されていた。翌年にはクリスタルガラスを用いた最初のジェリーが、冬景色をテーマにしたロシア向けの作品として制作されている。ガラスは古くから宝石のイミテーションとして重宝されていたが、ガラスを表現素材として積極的に用いたのはラリックが初めてであった≫(15頁)

≪ラリックのガラス工芸への夢を現実に変えたのは、香水商フランソワ・コティからの香水瓶製造の依頼であった。1890年代に芽生えていたガラスという芽を成長させる条件が整うまで、ラリックはじっとこの時を待っていたのではないだろうか≫(15頁)

≪パリ東方のコンブ=ラ=ヴィルの旧電球工場を借りて、1909年に香水瓶を中心としたガラス製品の量産を始め、1913年にはその工場を買い取り、文字通りガラス産業美術家となった。ラリックの作品は、それを機に機械を導入した量産品に変わった。彼はそれらの道具をアーティストとして使いこなすことで、美をより多くの人々の手に届くものに変えたのだ。ラリック社の商品台帳に基づくマルシアック氏編纂のカタログ・レゾネを参照すると、花瓶、香水瓶、蓋物、印章などを集めた項目は「オブジェ・ダール(美術品)」という名が充てられ、当時のラリック社が、アーティストの制作による芸術的なガラス器であることを示そうとしていたことがうかがえる≫(15頁)

≪1912年を限りにラリックはジュエリーの制作を止め、ガラス製造一本にエネルギーを集中してゆく≫(15、16頁)

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2020年04月26日

東京都庭園美術館 その三 アール・ヌーヴォーとアール・デコ

現在、東京都庭園美術館は新型コロナウイルスで休館中である。開館していれば以下のような内容が展示されている。
庭園美術館.JPG

上の企画「東京モダン生活」を理解するためには、前提認識としてアール・ヌーヴォーとアール・デコについて触れなければならない。

アール・ヌーヴォーとは、十九世紀末から二十世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開花した国際的な美術運動で「新しい芸術」を意味する。
花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線の組み合わせによる従来の様式に囚われない装飾性や、鉄やガラスといった当時の新素材の利用などが特徴で、新しい美術工芸運動であるが、これには日本美術の影響が大きかった。
 幕末から明治にかけて、新しく門戸を開いた日本の工芸品に初めて接し、精巧な技術の駆使、写実的でありながら、自然界や人生の生死転生を象徴する造形美に驚嘆し、ここからジャポニスム(日本熱、日本心酔)としてパリを中心として広がり、それがアール・ヌーヴォーにつながった。 
 『ガラス入門』(由水常雄著 平凡社 1983年)から紹介したい。
 ≪そのモットーとするところは、「新しい素材による新しい表現」であり、運動の中心的な展開は、工芸分野から始まった。そして、新しい素材としてもっとも注目されたのが、ガラスであった。ガラス工芸家ばかりでなく、画家や彫刻家や建築家が、こぞってこの新しい素材の中にあるすばらしい表現の可能性に注目して、ガラス工芸を手がけるようになった。その結果、ガラスは、あたかも数千年の眠りから醒めたかのように、新鮮な息吹きをもってよみがえってきたのであった。アール・ヌーヴォーのガラス作品の魅力は、その新鮮な表現と新しい可能性の展望を追及した点にある≫(149頁)
 ≪ローマ時代以来、ガラス工芸では無色透明の水晶のように美しいガラスを作りだすことが最高の目的とされていたが、アール・ヌーヴォーのガラス工芸では、無色透明よりも色彩の美しさの方に強い関心が寄せられた。透明で均一な色ガラスよりも、おぼろげに透けてみえる微妙な色合いが好まれた。半透明の複雑な色合いをしたガラスで、たんねんに作りあげられたその作品には、人間の理性と技とこころの一体化した表現が、無意識に意図されている。それは、十九世紀中頃から起こってきた産業主義による均一俗悪な機械製品への、強い反撥と警告を意味していた。アール・ヌーヴォーの運動が多くのジャンルの美術家や思想家、そして全ヨーロッパを巻き込んで爆発的な展開を見せた理由の大半もそこにあった≫(149、150頁)
 ≪アール・ヌーヴォーのガラス工芸に最初の礎石(そせき)を置いたのはパリのウジェーヌ・ルソー(一八二七~九一)とフランス東部の町ナンシーのエミール・ガレ(一八四六~一九〇四)であった。ともに一八七八年のパリ万博に出品した作品が、評論家たちの絶賛を受け、ガラス工芸に世人の関心をひきつける動機を作った≫(150頁)

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(ガレ自身の手による自画像)

≪このパリとナンシーの、ともに日本芸術に触発された二人のガラス作家によって、ヨーロッパのガラス工芸は、従来の冷たい技巧的な表現の世界から、暖かみのあるリリカル(叙情的)な美的表現の世界へとひきあげられていった。ガラスの世界は、このとき新しい可能性に満ちた二つの扉を開いたのであった。そして、ガレやルソーの後から続々とすぐれたガラス作家たちが誕生して、ガラス工芸史上、最高水準の作品が作りだされていった≫(150頁)
 『ガラスの道』(由水常雄著 中央公論新社 1988年)から補足する。
 ≪一九〇〇年のパリ万国大博覧会では、あらゆる表現がアール・ヌーヴォー様式一色に塗りつぶされるほどに、まさに「栄光のアール・ヌーヴォー」「アール・ヌーヴォーの大勝利」と謳歌されるほどまでに、怒涛のごとくヨーロッパを席巻していった≫(312、313頁)
 ≪眼をみはるかすばかりに急成長を遂げたアール・ヌーヴォー運動ではあったが、一九〇四年にアール・ヌーヴォーの主導者エミール・ガレがこの世を去ると、まるで今までの現象が嘘であったかのように、あらゆる展覧会場から、アール・ヌーヴォー様式は、姿を消していった≫(315頁)
このように、十九世紀末から二〇世紀初めにかけて、全ヨーロッパに熱病の如く爆発的な流行をみせたアール・ヌーヴォーであるが、その生命を完全に燃焼しつくしたのである。

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2020年04月25日

東京都庭園美術館 その二

東京都庭園美術館のホームページでも「旧朝香宮邸内装にかかわった人々」として、アンリ・ラパン(1873–1939)、ルネ・ラリック(1860–1945)、イヴァン=レオン=アレクサンドル・ブランショ(1868–1947)、マックス・アングラン(1908–1969)、レイモン・シュブ(1891–1970)と宮内省内匠寮が紹介されている。
このように「旧朝香宮邸内装にかかわった」フランス人芸術家は文化という分野で認められた存在であった。

中でもルネ・ラリックは高い評価を受けており、東京都庭園美術館のホームページで次のようにラリックを解説している。
≪ジュエリー・デザイナー、ガラス工芸家。シャンパーニュ地方マルヌ県アイ生まれ。素材の価値よりも作品の造形性を重視し、半貴石やガラス、角材などを積極的に用いて、植物、昆虫、裸婦などをモチーフとした象徴的なジュエリーを作り出し、アール・ヌーヴォー・ジュエリーのスタイルを確立した第一人者。その作品は1900年のパリ万国博覧会で絶賛された。1906年には香水商コティから香水瓶のデザインを依頼され、これを契機にガラス工芸に着手。芸術性が高く、なおかつ量産にも応えることのできる型押技法や型吹き技法で、カーマスコットなどの小品からモニュメンタルな建築用の大作までを手がける。1925年のアール・デコ博覧会場の中央にガラスの噴水塔《フランスの水源》を制作。その傍らには自身のパヴィリオンを出展するなど、アール・デコのガラス工芸家としての絶対的な評価を築いた。朝香宮邸のために正面玄関ガラスレリーフ扉をデザイン。大客室と大食堂のシャンデリアとしてそれぞれ《ブカレスト》、《パイナップルとざくろ》を提供している≫

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(正面がラリック作の女神像)

このように高く評価されているラリックについては、もう少し検討してみる必要があるだろう。

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2020年04月24日

東京都庭園美術館 その一

目黒駅から目黒通りを清正公前交差点、つまり、目黒通りの出発点に向かって歩き出すと、東京都庭園美術館が見えてくる。
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東京都庭園美術館について、米山勇氏(建築史家)が「ア―ル・デコの結晶 東京都庭園美術館」(日本経済新聞「夕刊文化」2018年8月1日)で以下のように解説している。
≪まず訪れたいのが、東京・白金台にある東京都庭園美術館だ。もと朝香宮鳩彦王夫妻の邸宅として1933年に竣工した建物で、25年にパリで開かれ、朝香宮王自身が訪れた「現代装飾美術・産業美術国際博覧会」(通称「アール・デコ博」)の世界を日本で再現した本格的なア―ル・デコ建築である。
玄関正面に待ち受けるガラス・レリーフ扉はルネ・ラリックの作品。翼を広げた4人の女
神が迎える日本近代建築史上もっとも官能的な玄関である。受付を通ってアンリ・ラパンのデザインによる大広間(第一展示室)へ。イタリア産大理石の暖炉とフランス製の鏡によって格調高く仕上げられたこの空間では、白熱球を差し込んだだけの無造作ともいえる照明が4列×10行も繰り返され、独特の陶酔感をもたらす。建築の工業化を背景としたア―ル・デコの「繰り返しの美学」の真骨頂である。
大広間の南側には次室(つぎのま)が配される。中央に立つのはフランス・セーブル社製の香水塔(ラパン作)。金でふちどられた渦巻きの装飾が、典型的なア―ル・デコ。続く大客室(第2展示室)は、建物の中でももっとも華やかな空間だ。シャンデリアはラリック作の「ブカレスト」。
放射状に広がる鮫(さめ)の歯のような表現が、玄関扉の女神像の背景と呼応している点を見逃してはならない。大広間との境に設けられたガラス扉は、ア―ル・デコのパタ―ンをエッチングしたもの。マックス・アングランの作で、ア―ル・デコのもっとも先端的な表現だ。
2階は朝香宮ご家族のための部屋が連続する。それらは一部を除いて戦前の建築精鋭集団、宮内省内(た)匠(くみ)寮の仕事である。まず目を引くのが階段手摺(てす)り子のグリル装飾。フランス人による繊細なア―ル・デコとはひと味違う骨太の存在感がある。鳩彦殿下の書斎と御居間は、この階でラパンが手がけた数少ない空間だ。とくに居間は、各部の精緻なデザイン、ヴォ-ルト(かまぼこ型)天井に合わせて弧を描く鏡と暖炉、古典的なペア・コラム(2本一組の円柱)の柱頭に施された真鍮(しんちゅう)の細工など、ア―ル・デコならではのデザインが随所にちりばめられている。ア―ル・デコに惹(ひ)かれた主(あるじ)にラパンが捧(ささ)げた最高の贈物だろう。

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一方、允子妃殿下の御居間は宮内省内匠寮の仕事だ。鳩彦殿下の御居間と同じくヴォ-ルト天井を採用し、両者のつながりに配慮している。全体的に華美さを抑え、和風の感覚をとり入れた優しい空間で、収納スペースも他の諸室に比べて多い。庭園に向かって開かれたバルコニーも心地よく、「住みよさ」に深く配慮した設計がなされている。建物の竣工後、わずか半年で亡くなられる妃殿下へのつくり手の思いが感じられる感銘深い一室だ。
ラパン、ラリック、ブランショ、アングラン、シューブといったフランス人芸術家たちの競演。そこに日本の誇る精鋭集団、宮内省内匠寮が参戦し、建物はア―ル・デコの一大コロシアムと化す。鑑賞の対象としての美術館では群を抜く存在だ≫

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2020年04月23日

目黒駅 その二

目黒駅は、目黒区域でなく、品川区に立地する。
現在の目黒駅とバスターミナルである。高層ビル「目黒セントラルスクウエア」も立地する。

目黒西口.JPG

目黒西口2.jpg

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どうして品川区に位置しているのか。
以前、目黒区に住んでいる人から聞いた話では、山手線(当時は品川線)がつくられるとき、品川から目黒川沿いを進み、目黒駅は目黒不動尊付近につくられる予定であった。
しかし、地元住人が、蒸気機関車の煤煙や振動が農作物に及ぼす影響を懸念して反対運動を起し、駅の場所を品川区上大崎の権之助坂上まで追い上げたのだ。というもの。
だが、鉄道関係者の間では、次のような見解が持たれているようである。
品川線当時は蒸気機関車で、電車ほどのパワーはなく、上り坂は苦手。そのため線路はなるべく高低差が少ないようにしたい。
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海抜の低い品川から、内陸の赤羽まで線路を敷く場合、その間は複雑な起伏があり、特に五反田から渋谷にかけての起伏が厳しく、蒸気機関車にとっては難所。
地形を検討したところ、目黒駅あたりを掘り下げて、切通にするのが最善だと考えたという。現在の目黒駅ホームが深い位置にあるのは135年前(明治18年)の、このような事情によるもの。
隣の五反田駅は高架ホームになっているが、それでも五反田~目黒間は、山手線で最も勾配がきついエリアである。

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2020年04月22日

目黒駅  その一

久米美術館は目黒駅前にある。では、この目黒駅はいつごろ出来たのか。
 この説明には山手線の歴史から語らねばならない。
 山手線は環状になっているので、端から端までを行ったり来たりする多くの路線とは異なり、ずっと乗ってぐるぐると回り続け、1週は34.5kmで、1週するのに約1時間。
 駅の数は令和2年(2020)開業の「高輪ゲートウェイ駅」を加え30駅。
山手線はJR東日本の路線の中で、平均駅間距離が最も短い路線で、駅間の距離が一番長いのは、品川~田町の約2.2kmだったが、高輪ゲートウェイ駅が出来たので、最長駅間は五反田~大崎の約2.0kmとなって、反対に駅間最短距離は西日暮里~日暮里の約0.5km。
山手線は、明治18年(1885)に品川~赤羽間(渋谷・新宿経由)が「品川線」として開業されたところから始まった。既に開業していた新橋・品川以南の現東海道線と、上野以北の東北本線を繋げる為の路線として。

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人口が多い下町の東側をさけて、当時は人の少なかった西側に線路が作られたわけ。この品川線に併せて開業したのが、渋谷・新宿・目黒・目白駅。つまり、目黒駅は明治18年に設置されたわけである。新橋・品川・上野はそれ以前に開業していた。
 その後明治36年(1903)には豊島線という名前で、田端~池袋間が開通。この時、田端方向と赤羽方向へ分岐する駅として池袋駅ができ、明治42年(1909)には赤羽~品川間、池袋~田端間、大崎~大井連絡所(貨物支線)間の路線が、正式に「山手線」と名付けられた。
1909年はまだ国鉄ですらない時代で。駅も増えたし名前も「山手線」になったが、この時点ではまだ現在の環状線ではなく「C」字形。
 その後、大正8年(1919)、東京まで開通した中央線と合わせて、中野(中央線)東京・品川・新宿・池袋・田端・上野の駅で、「の」字形での運転がされるようになった。
 大正14年(1925)になると秋葉原まで伸びていた東北本線と神田駅が結ばれ、東京~上野間の高架が完成したこともあり、ついに山手線が一つの円になり環状運転が開始された。

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2020年04月21日

「目黒の殿様」その二

何故に、久米桂一郎が金持ちなのか、また、この絵が目黒駅前の久米美術館にあるのか。
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この説明には岩倉使節団から語らねばならない。岩倉使節団とは、明治4年(1871)11月(新暦12月)から明治6年(1873)9月までアメリカとヨーロッパ諸国に、岩倉具視をリーダーとし、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された使節団である。

使節団の見聞は、帰国後『米欧回覧実記』として5冊にまとめられたが、これを書いたのが旧佐賀藩士の久米邦武で、久米桂一郎の父親である。
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この『米欧回覧実記』は、19世紀末のヨーロッパ文明の百科事典ともいうべきほどに、あらゆる文明事象を書き記していた。それ故、人々は大いにこの報告書を読み、版を重ね第四刷りまで発行された。
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久米は『米欧回覧実記』を完成させたときのことを、次のように回想している。(『東京の地霊』)
≪岩倉大使一行の米欧回覧実記の印刷製本は、此の年漸く(ようやく)完成して、之を天覧に供した処、(明治十一年)十二月二十九日金五百円の賞金を賜つた。当時、西南戦役の直後で、政府の財政信用は地に堕ち、対外為替の変動常なく、不換紙幣は低落の一途を辿る(たどる)のみで、不動産とするのが最も安全と考え、この賞金に補足して、白金台町の外れ(はずれ)権之助坂上に五千坪余の土地を購ひ入れた≫
「白金台町の外れ権之助坂上」とは目黒界隈のことだが、当時の目黒は≪植木溜のやうになって、実収は少ないが、富岳の眺望を楽しむ丈(だけ)の土地≫(『東京の地霊』)だった。その名残として、今でも目黒駅前の三田通りからは富士山をマンション建物の間から望むことができる。
それにしても『米欧回覧実記』の価値はすごい。5冊出版で土地5000坪入手できたのであるから、1冊1000坪に当たる。
久米邦武は岩倉使節団で帰国後、築地に居を構えていたが、明治8年(1875)に京橋の三十間堀に転居した。ここは明治の赤レンガで有名な銀座レンガ街一角に当たる。
銀座レンガ街とは、明治5年(1872)4月3日(旧暦2月26日)、和田倉門内兵部省添屋敷(旧会津藩中屋敷)から出火、銀座の御堀端から築地までの95万㎡(41町、4,879戸)を焼失した。焼死8人、負傷者60人、焼失戸数4874戸という記録が残るが、この大火の復旧にあたって、銀座地区の道路を拡幅し、レンガによる家屋を建設し、都市の不燃化を目指して造られた街並みで、明治10年(1877)5月に全体が完成した。その後、関東大震災で壊滅したが、邦武は明治8年に完成前のレンガ街に居住したのであるから目敏い。邦武の欧米見聞を積んだ成果でもあろう。
邦武は「白金台町の外れ権之助坂上」ほかにも「目黒不動の七八丁許(ばかり)西、戸越に約一万坪」も購入している。この結果「京橋の三十間堀」が事務所で、「戸越」の土地が菜園、「白金台町の外れ権之助坂上」の目黒が林間の山荘としたという。
後に邦武は土地の一部を日本麦酒醸造(現・サッポロホールディングス)に売却、これが現在の恵比寿ガーデンプレイスとなっている。

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2020年04月20日

「目黒の殿様」その一

コロナウイルス感染症による外出自粛以前は、よく目黒駅を利用していた。今は全く交通網とは無縁となったが、その目黒駅にはコロナウイルス対策散歩で時々行く。
 JR目黒駅西口に久米美術館がある。久米ビルの8階であり、美術館パンフレットに記載された地図は以下である。
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パンフレット表紙に『久米桂一郎肖像』の絵が掲載されている。
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この絵は黒田清輝が描いたものである。黒田清輝は東京外国語学校等を経て、明治17年(1884)から明治26年(1893)まで渡仏。当初は法律を学ぶことを目的とした留学であったが、パリで画家の山本芳(ほう)翠(すい)や藤雅三、美術商の林忠正に出会い、明治19年(1886)に画家に転向。ラファエル・コランに師事する。明治24年(1891)に『読書』、1893年には『朝妝(ちょうしょう)』がフランスの展覧会で入賞。同年アメリカ経由で帰国。明治29年(1896)に、滞欧時代に親しくなった久米桂一郎と共に白馬会を発足させた。
横に向いた桂一郎は、葉巻を口にして絵筆を走らせている。横顔の上にフランス語で描かれている。KÉIITCHIRO KOVMÉ LE SEIGNEVR DE MEGOVRO JANV 1897。KOVMÉとMEGOVROのVの字はUの字のことなので、KOVMÉは「久米」である。SEIGNEVRを仏語辞典で引くと「封建時代の領主・主君」とある。そこでこの絵に描かれたフランス文字は「目黒の殿様 久米桂一郎 1897年1月」と解される。(参照『東京の地霊』鈴木博之著 ちくま学芸文庫)
明治30年(1897)に黒田が親友の桂一郎を「目黒の殿様」と描いたわけだが、この当時は既に本来の「殿様」は消滅している。おそらく久米が裕福なのを茶化したのだろう。
では何故に、桂一郎が金持ちなのか、また、この絵が目黒駅前の久米美術館にあるのか。
次掲載に続く。

投稿者 Master : 11:18 | コメント (0)

2020年04月19日

「環境条件下で、できることをする」

永井荷風が日本人は理想というものを持たず「その日その日を気楽に送ることを第一となすなり」と指摘しているという。(日経新聞 春秋 2020.3.29)
そうかもしれないが、今回のコロナウイルス感染症は、国民全員を一大不安にした。そこへ政府の緊急事態宣言、対象地域を2020年4月16日から5月6日まで全国に拡大した結果、外出自粛を要請された我々は、今までの生活スタイルを一変させることになった。
行動範囲が家庭内のみになり、食べて、寝る生活となって、不健康状態に陥りやすいので、各メディアからは家庭内でできる運動方法がいくつも提案されている。
筆者は、今までジムで行っていたストレッチを毎日食後に行って、血糖値を上げないようし、あとは散歩を大体60分程度するようにしている。
皆さんも、それぞれ工夫されていると思うが、その前提としては「自分」株式会社の社長という考え方がよろしいのではないかと思っている。
カナダ・ヨーク大学のモシェ・ミレブスキー教授が「人生100年時代の資産管理術」という本で著した言葉である。(日経新聞 大機小機 2020.3.31)
一人ひとりが「自分」株式会社の最高経営責任者(CEO)兼最高財務責任者(CFO)として、その企業価値を最大化していきなさい――とミレブスキー氏は教えてくれる。
この考え方を採用すれば、毎日の散歩も重要な要素に変化する。一般的に今まで自宅付近地勢に興味が薄く、会社と自宅を往復するだけであったのだから、コロナウイルス感染症は、危機を自己啓発に結びつけるツールになるかもしれない。
つまり、散歩に工夫が必要なのである。荷風が指摘する「その日その日を気楽に送る」のではなく、家庭内の運動と散歩しかなくなった環境条件下では、気楽な散歩から、散歩の積み重ねによって、何かを見つけ、何かを引き出すようにしたいものである。
会社ではトップダウンや計画があったわけだが、今はそことの連絡網が薄れている。だから、日々の営みの中において自分で見つけていくことから、そこから新たな方向性を生み出せるのではないか。いわばちょっとした「気づき」のようなものだが、積み重なると、時に大きな方向転換をもたらし、「創発」という可能性もあるだろう。
自らの事業基盤、知識基盤がいつディスラプトされるか油断ならない時代なのだからこそ、一人ひとりが「創発」の感度を磨く必要があるのではないか。
それを散歩という定まりきった行動の中で見いだしていく。このように考えて行動するならば、コロナウイルス感染症そのものはきわめて怖い存在だが、反面、「自分」株式会社の社長という脳細胞を活性化される糧に成り得るのではないだろうか。
次回からは筆者が行っている散歩から見出した何かをお伝えしていきたい。

投稿者 Master : 11:42 | コメント (0)

2020年04月18日

シアトルのIT企業経営者からの提言

Pacific Software Publishing, Inc.(シアトル)代表取締役社長  内倉憲一氏から次のアドバイスをいただきました。

危機
つい最近まで、誰もがこの数年間の経済成長を実感し、活気に満ち溢れていたと思います(トランプ政権への賛否は別として)。しかしながら、コロナウイルスパンデミックの影響を受け、今では未曾有の株価暴落の真っ只中にいます。レストランは閉まり、飛行機はキャンセルが相次ぎ、ホテルは空です。言うまでもなく、多くの人が職を失っています。職を失っても、命を守る方が重要だということでしょう。

私は、1987年に起業して以来、インターネット・バブル、サブプライム住宅ローン危機、9.11 を経験してきました。身近なところでは、シアトルのWTO抗議活動、データセンターの洪水、フィッシャープラザの電気火災などがありました。さらに言うと、ハッキング、DoS攻撃、ウイルスアタック、サーバーの故障などは常に起こり得ることで、我々は様々な危機に直面しては、その都度乗り越えてきたのです。

これらの危機から私が学び、心に留めていることを下記のリストにまとめました。

1. 危機が訪れた時、焦って決断をするのではなく、まず準備をします。私は、コロナウイルスパンデミックは予期しておりませんでした。
2. 現金を準備します。万が一の場合に備えた資金を準備しておくことで、パニックにならずに済みます。
3. 社員と密にコミュニケーションを取ります。社員と意見が合わないこともあるかもしれませんが、みんなから良い意見を引き出せるよう、話を聞き理解するよう努めます。
4. 冷静になります。リーダーがパニックになれば会社全体がパニックになってしまいます。あなたは舵を握る船長なのです。社員に焦っている姿は見せないでください。
5. 危機には終わりがあることを思い出します。意識を高く持ち、嵐が過ぎたあとの準備を始めます。

危機的状況にいるかどうかに関わらず、これらのことを常に意識するよう心がけています。「マーフィーの法則」や「ハインリッヒの法則」もその一つです。これらの法則について知らない場合は是非調べてみてください。

コロナウイルスの危機にも必ず終わりが来ます。その時の準備はできていますか?

投稿者 Master : 11:45 | コメント (0)