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2020年04月30日

東京都庭園美術館 その七 朝香宮鳩彦王(1)

朝香宮鳩彦王(あさかのみや やすひこおう)、明治20年(1887) -昭和56年(1981)、または朝香鳩彦(あさか やすひこ)は旧皇族で、旧陸軍軍人。久邇宮朝彦親王の第8王子で朝香宮初代当主である。
1947年(昭和22年)10月14日に皇籍離脱している。允(のぶ)子(こ)妃殿下は明治天皇の第八皇女である。
昭和天皇のお妃であった香淳皇后は、久邇宮邦彦(くにのみや くによし)王の第1女子良子(ながこ)女王である。
久邇宮邦彦王と朝香宮鳩彦王は兄弟であるから、朝香宮鳩彦王は香淳皇后の叔父に当たる。

幕末以来つづいた宮家はそれほど多くない。『東京の地霊』(鈴木博之著 ちくま学芸文庫)を参照して述べたい。
一般の四親王家といわれる宮家がある。これは世襲親王家とも称され、南北朝時代から江戸時代の日本の皇室において、当代の天皇との血統の遠近にかかわらず、代々親王宣下を受けることで親王の身位を保持し続けた四つの宮家をいう。
最初の世襲親王家とされる伏見宮、その後、天正17年(1589)に桂宮(当初は八条宮)、寛永2年(1625)に有栖川宮(当初は高松宮)、宝永7年(1710)に閑院宮が創設され、最終的に世襲親王家は四家となった。
だが、桂宮家は明治14年に、有栖川宮家は大正12年に、それぞれ絶えてしまうが、明治に入ってからつぎつぎに宮家が創設された。
明治元年(1868) 華頂宮(かちょうのみや)
山階宮(やましなのみや)
明治3年(1870) 北白川宮
         東伏見宮
         梨本宮
明治9年(1876) 久邇宮
明治25年(1892) 賀陽宮(かやのみや)
明治39年(1906) 朝香宮
         竹田宮
         東久邇宮
明治43年(1910) 李王家(二家) 〔王族〕

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2020年04月29日

東京都庭園美術館 その六 ルネ・ラリックと朝香宮

池田氏まゆみ氏(美術工芸史家)の『ルネ・ラリック――情熱、野心、創造』(国立新美術館 MOA美術館 東京新聞2009年「ルネ・ラリック」図録)は、ラリックと、東京・白金台にある東京都庭園美術館についてもふれる。

≪「アール・デコ博覧会」の成功から、ラリックのガラス製品は博覧会の名称から命名された様式「アール・デコ」の代名詞となった。彼のもとにはインテリア関係の依頼がいくつも寄せられた。その一つに、東京の朝香宮邸に納められた内装品がある。パリで「アール・デコ博覧会」を訪れた朝香宮鳩彦(やすひこ)王と允(のぶ)子(こ)妃殿下は、帰国後東京白金に新宮殿を建設した際、本格的なアール・デコ様式を望まれ、フランスの装飾家アンリ・ラパンに内装の主要部分を委嘱した。現在東京都庭園美術館として公開されている旧宮邸(竣工1933年)には、ラリック製のガラス・レリーフ扉や照明器具などか保存されている≫(17頁)
 ラリックが日本でもガラス文化として認められた証明が、東京都庭園美術館のガラス・レリーフなのである。
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2020年04月28日

東京都庭園美術館 その五 ルネ・ラリック

前号に続き池田まゆみ氏(美術工芸史家)の『ルネ・ラリック――情熱、野心、創造』(国立新美術館 MOA美術館 東京新聞2009年「ルネ・ラリック」図録)の記述を紹介する。

≪彼についてしばしば尋ねられる質問がある。すなわち、①「ジュエリー制作から、なぜ”突然”ガラスに移行したのか」、②「これらの作品をすべて一人で制作したのか」、③「これだけの作品を生み出したラリックは、どのような人物であったのか」という問いである≫(8頁)

質問項目①と②については前号で述べた。そこで、次に質問③項目、「これだけの作品を生み出したラリックは、どのような人物であったのか」について見てみたい。これについては、以下の記述である。

≪「小柄でがっちりした体格、黒く燃える瞳。顔つきは力強さと優しさ、快活さを示している。並外れた魅力の持ち主で、それは優雅な物腰からきていた。女性に対しては、まるで宝物でも扱うように接していた。(…)かと思うと、ラリックには荒々しい面もあり、ラリックの内には激しく憤るもう一人別の男が潜んでいた。母〔訳注:娘シュザンヌ・ラリック〕は幼い頃、怒りに猛りに狂い会計係のムッシュー・パスキネを階段から突き落とすところを見たという。また、男としてアーティストとして生涯にわたり、束縛を嫌った。そして、自分が何かを始めるときには、必ず事前に他人の行いを慎重に研究していた。思いつきやハッタリを嫌い、偶然よりも忍耐を信じ、確信を持てた時に初めて行動を企てた」。孫娘マリッチ・アヴィランドが回想するラリックの素顔である。彼の人物像をこれほど端的に伝える言葉はないだろう≫(9頁)

 次にラリックが世界で認められた「アール・デコ博覧会」について述べる。

≪第一次世界大戦は過去のヨーロッパ社会の終焉を意味していた。古きよき時代は終わり、活気に満ちた大衆社会が新たに広がり、機械文明の浸透でそれまでにない変革の時代を迎えていた。パリには自動車があふれ、電灯の普及が夜の生活を一新し、新しい消費社会が広がりをみせる。1920年代はラリックのガラス工芸活動が最も充実した時代だった。一握りのエリートに向けたジュエリー制作から量産可能なガラス工芸への転換は時代の要請でもあった。パリ郊外の工場が手狭になったラリック社では、アルザスのヴィンゲン=シュル=モデールに新しい工場を開設して生産規模を拡大した。
 1925年のパリでは大戦後の産業の復興を期して、新時代のニーズに適応したデザインを集めた国際博覧会「現代装飾美術産業美術国際博覧会(通称「アール・デコ博覧会」)が開催された。かねてからガラスを活用した総合的な空間演出に新しい可能性を見出していたラリックは、博覧会の会場を舞台に大規模なデモンストレーションを実行した。まずメイン会場のアンヴァリッド広場に専用のパヴィリオンを設け、内外装にガラスを用いて光の空間をつくり上げた。展覧会のテーマ「光と水の演出」にちなみ、水辺のイメージで統一されたダイニング・ルームには《ロータス》のグラス・セットが置かれ、《ブドウ》の燭台や照明器具はもちろん、床、天井などすべてにガラスを応用した「光の空間」が演出されていた。噴水の装飾を浮彫りした大きなガラス窓を背景に、《ロータス》のセットはまるで池に浮かぶ生きた花のように、静かなたたずまいを見せている。光あふれる静謐な空間は、博覧会の翌年にオランジュリー美術館に完成したクロード・モネの「睡蓮の間」にも通じる自然の安らぎを感じさせている。
 ラリックの出展のうち最も話題を呼んだのは、コンコルド広場のオベリスクと張り合うかのようにパヴィリオンの正面に立てられた高さ約15メートルの野外噴水塔《フランスの水源》であった。八角形の柱の角にフランスの河川と泉を象徴する16段合計128体のガラス製の女神像を飾り、夕陽が沈むとスポット・ライトに照らしだされて光のモニュメントとなった。噴水は閉会後に撤去されたが、女神像は鋳型を利用して新たに鋳造されて市販された。被り物も両手のポーズも全身を覆う水の表現も1点ごとにデザインを違えているところがラリックらしい。噴水の後ろに位置する「工芸の庭」列柱廊に設けられた2カ所の小屋(しょうおく)のガラス扉《ガラス職人》もラリックの作であった。ラリックはこの他にも、セーヴル館のダイニング・ルーム、グラン・パレ内の香水コーナーの装飾、メイン・ゲート名誉門チケット売り場のガラス装飾を手がけ、アレクサンドル3世橋上のブティック街へも出店した≫(16、17頁)

さらに、池田氏は結論としてラリックの「用の中の美」を主張する。

≪19世紀が夢見た工芸産業への美術の応用「ル・ボー・ダン・リュティル(用の中の美を)」の理想を掲げた工芸家のなかで、ラリックは最も大きな成功をつかんだ一人であった。サロンで最初の成功を収めた1890年代の後半から「アルチスト(芸術家)」と呼ばれたラリックは、工場でのガラスの製造を開始した1909年からは、工場生産に美術を応用した「産業芸術家」として新たな世界に挑戦した。世紀末の「アール・ヌーヴォー」と20世紀初頭の「アール・デコ」、宝飾工芸とガラス工芸、二つの時代と二つの分野で頂点を極めたラリックの人生、そこにある情熱、野心、そして創造には、ものづくりを心の底から愛した一人の芸術家の純粋な魂が息づいている≫(18頁)

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2020年04月27日

東京都庭園美術館 その四 アール・デコとルネ・ラリック

エミール・ガレが亡くなった一九〇四年を境にして、アール・ヌーヴォー運動は急速に衰えていったが、その頃に台頭してきたのが、パート・ド・ヴェールの技法を使うアージー・ルソーとフランソワ・デコルシュモン、彫金作家から転向したルネ・ラリック、フォーヴィズムの画家から転向したモーリス・マリノなどであった。

『ガラス入門』(由水常雄著 平凡社 1983年)が述べる。
 ≪アール・デコとはアール・デコラティーヴ(装飾美術)の略でアール・ヌーヴォーのあとを受けて、一九一八年の第一次世界大戦から、第二次世界大戦の始まる一九三九年頃にかけて展開した現代的な美術様式である≫(151頁)
 この時代に登場したのが、後に香水瓶で一世を風靡するルネ・ラリックである。そこで次にラリックについて検討したい。

ラリックについては様々な文献があるが、その中から池田まゆみ氏(美術工芸史家)の『ルネ・ラリック――情熱、野心、創造』(国立新美術館 MOA美術館 東京新聞2009年「ルネ・ラリック」図録)から見てみよう。

≪彼についてしばしば尋ねられる質問がある。すなわち、「ジュエリー制作から、なぜ”突然”ガラスに移行したのか」、「これらの作品をすべて一人で制作したのか」、「これだけの作品を生み出したラリックは、どのような人物であったのか」という問いである≫(8頁)
この質問2項目は、
① 「ジュエリー制作から、なぜ”突然”ガラスに移行したのか」
② 「これらの作品をすべて一人で制作したのか」
であるが、これについて池田氏は以下のように解説している。

≪ラリックにおけるジュエリーからガラス工芸への移行は1900年から1910年の間に行われた。この時期彼はジュエリーの創作を手がけながら、ガラス工芸への転向を模索したのだった≫(15頁)
≪ラリックはなぜジュエリーを離れてガラスに向かったのだろうか。ラリックのジュエリーを特徴づけるエナメル(七宝)はガラスの一種に他ならず、ガラスはラリックにとって決して新しい素材ではなかった。ラリック様式(ジュエリーのアール・ヌーヴォー)が芽生え始めた1890年から、すでにテレーズ通り20番地の工房には小型のガラス窯があり、彼はガラスと格闘していた。そこで制作されたガラスの小品は、ジュエリー作家として初出品した1895年のサロンに出品されていた。翌年にはクリスタルガラスを用いた最初のジェリーが、冬景色をテーマにしたロシア向けの作品として制作されている。ガラスは古くから宝石のイミテーションとして重宝されていたが、ガラスを表現素材として積極的に用いたのはラリックが初めてであった≫(15頁)

≪ラリックのガラス工芸への夢を現実に変えたのは、香水商フランソワ・コティからの香水瓶製造の依頼であった。1890年代に芽生えていたガラスという芽を成長させる条件が整うまで、ラリックはじっとこの時を待っていたのではないだろうか≫(15頁)

≪パリ東方のコンブ=ラ=ヴィルの旧電球工場を借りて、1909年に香水瓶を中心としたガラス製品の量産を始め、1913年にはその工場を買い取り、文字通りガラス産業美術家となった。ラリックの作品は、それを機に機械を導入した量産品に変わった。彼はそれらの道具をアーティストとして使いこなすことで、美をより多くの人々の手に届くものに変えたのだ。ラリック社の商品台帳に基づくマルシアック氏編纂のカタログ・レゾネを参照すると、花瓶、香水瓶、蓋物、印章などを集めた項目は「オブジェ・ダール(美術品)」という名が充てられ、当時のラリック社が、アーティストの制作による芸術的なガラス器であることを示そうとしていたことがうかがえる≫(15頁)

≪1912年を限りにラリックはジュエリーの制作を止め、ガラス製造一本にエネルギーを集中してゆく≫(15、16頁)

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2020年04月26日

東京都庭園美術館 その三 アール・ヌーヴォーとアール・デコ

現在、東京都庭園美術館は新型コロナウイルスで休館中である。開館していれば以下のような内容が展示されている。
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上の企画「東京モダン生活」を理解するためには、前提認識としてアール・ヌーヴォーとアール・デコについて触れなければならない。

アール・ヌーヴォーとは、十九世紀末から二十世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開花した国際的な美術運動で「新しい芸術」を意味する。
花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線の組み合わせによる従来の様式に囚われない装飾性や、鉄やガラスといった当時の新素材の利用などが特徴で、新しい美術工芸運動であるが、これには日本美術の影響が大きかった。
 幕末から明治にかけて、新しく門戸を開いた日本の工芸品に初めて接し、精巧な技術の駆使、写実的でありながら、自然界や人生の生死転生を象徴する造形美に驚嘆し、ここからジャポニスム(日本熱、日本心酔)としてパリを中心として広がり、それがアール・ヌーヴォーにつながった。 
 『ガラス入門』(由水常雄著 平凡社 1983年)から紹介したい。
 ≪そのモットーとするところは、「新しい素材による新しい表現」であり、運動の中心的な展開は、工芸分野から始まった。そして、新しい素材としてもっとも注目されたのが、ガラスであった。ガラス工芸家ばかりでなく、画家や彫刻家や建築家が、こぞってこの新しい素材の中にあるすばらしい表現の可能性に注目して、ガラス工芸を手がけるようになった。その結果、ガラスは、あたかも数千年の眠りから醒めたかのように、新鮮な息吹きをもってよみがえってきたのであった。アール・ヌーヴォーのガラス作品の魅力は、その新鮮な表現と新しい可能性の展望を追及した点にある≫(149頁)
 ≪ローマ時代以来、ガラス工芸では無色透明の水晶のように美しいガラスを作りだすことが最高の目的とされていたが、アール・ヌーヴォーのガラス工芸では、無色透明よりも色彩の美しさの方に強い関心が寄せられた。透明で均一な色ガラスよりも、おぼろげに透けてみえる微妙な色合いが好まれた。半透明の複雑な色合いをしたガラスで、たんねんに作りあげられたその作品には、人間の理性と技とこころの一体化した表現が、無意識に意図されている。それは、十九世紀中頃から起こってきた産業主義による均一俗悪な機械製品への、強い反撥と警告を意味していた。アール・ヌーヴォーの運動が多くのジャンルの美術家や思想家、そして全ヨーロッパを巻き込んで爆発的な展開を見せた理由の大半もそこにあった≫(149、150頁)
 ≪アール・ヌーヴォーのガラス工芸に最初の礎石(そせき)を置いたのはパリのウジェーヌ・ルソー(一八二七~九一)とフランス東部の町ナンシーのエミール・ガレ(一八四六~一九〇四)であった。ともに一八七八年のパリ万博に出品した作品が、評論家たちの絶賛を受け、ガラス工芸に世人の関心をひきつける動機を作った≫(150頁)

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(ガレ自身の手による自画像)

≪このパリとナンシーの、ともに日本芸術に触発された二人のガラス作家によって、ヨーロッパのガラス工芸は、従来の冷たい技巧的な表現の世界から、暖かみのあるリリカル(叙情的)な美的表現の世界へとひきあげられていった。ガラスの世界は、このとき新しい可能性に満ちた二つの扉を開いたのであった。そして、ガレやルソーの後から続々とすぐれたガラス作家たちが誕生して、ガラス工芸史上、最高水準の作品が作りだされていった≫(150頁)
 『ガラスの道』(由水常雄著 中央公論新社 1988年)から補足する。
 ≪一九〇〇年のパリ万国大博覧会では、あらゆる表現がアール・ヌーヴォー様式一色に塗りつぶされるほどに、まさに「栄光のアール・ヌーヴォー」「アール・ヌーヴォーの大勝利」と謳歌されるほどまでに、怒涛のごとくヨーロッパを席巻していった≫(312、313頁)
 ≪眼をみはるかすばかりに急成長を遂げたアール・ヌーヴォー運動ではあったが、一九〇四年にアール・ヌーヴォーの主導者エミール・ガレがこの世を去ると、まるで今までの現象が嘘であったかのように、あらゆる展覧会場から、アール・ヌーヴォー様式は、姿を消していった≫(315頁)
このように、十九世紀末から二〇世紀初めにかけて、全ヨーロッパに熱病の如く爆発的な流行をみせたアール・ヌーヴォーであるが、その生命を完全に燃焼しつくしたのである。

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2020年04月25日

東京都庭園美術館 その二

東京都庭園美術館のホームページでも「旧朝香宮邸内装にかかわった人々」として、アンリ・ラパン(1873–1939)、ルネ・ラリック(1860–1945)、イヴァン=レオン=アレクサンドル・ブランショ(1868–1947)、マックス・アングラン(1908–1969)、レイモン・シュブ(1891–1970)と宮内省内匠寮が紹介されている。
このように「旧朝香宮邸内装にかかわった」フランス人芸術家は文化という分野で認められた存在であった。

中でもルネ・ラリックは高い評価を受けており、東京都庭園美術館のホームページで次のようにラリックを解説している。
≪ジュエリー・デザイナー、ガラス工芸家。シャンパーニュ地方マルヌ県アイ生まれ。素材の価値よりも作品の造形性を重視し、半貴石やガラス、角材などを積極的に用いて、植物、昆虫、裸婦などをモチーフとした象徴的なジュエリーを作り出し、アール・ヌーヴォー・ジュエリーのスタイルを確立した第一人者。その作品は1900年のパリ万国博覧会で絶賛された。1906年には香水商コティから香水瓶のデザインを依頼され、これを契機にガラス工芸に着手。芸術性が高く、なおかつ量産にも応えることのできる型押技法や型吹き技法で、カーマスコットなどの小品からモニュメンタルな建築用の大作までを手がける。1925年のアール・デコ博覧会場の中央にガラスの噴水塔《フランスの水源》を制作。その傍らには自身のパヴィリオンを出展するなど、アール・デコのガラス工芸家としての絶対的な評価を築いた。朝香宮邸のために正面玄関ガラスレリーフ扉をデザイン。大客室と大食堂のシャンデリアとしてそれぞれ《ブカレスト》、《パイナップルとざくろ》を提供している≫

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(正面がラリック作の女神像)

このように高く評価されているラリックについては、もう少し検討してみる必要があるだろう。

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2020年04月24日

東京都庭園美術館 その一

目黒駅から目黒通りを清正公前交差点、つまり、目黒通りの出発点に向かって歩き出すと、東京都庭園美術館が見えてくる。
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東京都庭園美術館について、米山勇氏(建築史家)が「ア―ル・デコの結晶 東京都庭園美術館」(日本経済新聞「夕刊文化」2018年8月1日)で以下のように解説している。
≪まず訪れたいのが、東京・白金台にある東京都庭園美術館だ。もと朝香宮鳩彦王夫妻の邸宅として1933年に竣工した建物で、25年にパリで開かれ、朝香宮王自身が訪れた「現代装飾美術・産業美術国際博覧会」(通称「アール・デコ博」)の世界を日本で再現した本格的なア―ル・デコ建築である。
玄関正面に待ち受けるガラス・レリーフ扉はルネ・ラリックの作品。翼を広げた4人の女
神が迎える日本近代建築史上もっとも官能的な玄関である。受付を通ってアンリ・ラパンのデザインによる大広間(第一展示室)へ。イタリア産大理石の暖炉とフランス製の鏡によって格調高く仕上げられたこの空間では、白熱球を差し込んだだけの無造作ともいえる照明が4列×10行も繰り返され、独特の陶酔感をもたらす。建築の工業化を背景としたア―ル・デコの「繰り返しの美学」の真骨頂である。
大広間の南側には次室(つぎのま)が配される。中央に立つのはフランス・セーブル社製の香水塔(ラパン作)。金でふちどられた渦巻きの装飾が、典型的なア―ル・デコ。続く大客室(第2展示室)は、建物の中でももっとも華やかな空間だ。シャンデリアはラリック作の「ブカレスト」。
放射状に広がる鮫(さめ)の歯のような表現が、玄関扉の女神像の背景と呼応している点を見逃してはならない。大広間との境に設けられたガラス扉は、ア―ル・デコのパタ―ンをエッチングしたもの。マックス・アングランの作で、ア―ル・デコのもっとも先端的な表現だ。
2階は朝香宮ご家族のための部屋が連続する。それらは一部を除いて戦前の建築精鋭集団、宮内省内(た)匠(くみ)寮の仕事である。まず目を引くのが階段手摺(てす)り子のグリル装飾。フランス人による繊細なア―ル・デコとはひと味違う骨太の存在感がある。鳩彦殿下の書斎と御居間は、この階でラパンが手がけた数少ない空間だ。とくに居間は、各部の精緻なデザイン、ヴォ-ルト(かまぼこ型)天井に合わせて弧を描く鏡と暖炉、古典的なペア・コラム(2本一組の円柱)の柱頭に施された真鍮(しんちゅう)の細工など、ア―ル・デコならではのデザインが随所にちりばめられている。ア―ル・デコに惹(ひ)かれた主(あるじ)にラパンが捧(ささ)げた最高の贈物だろう。

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一方、允子妃殿下の御居間は宮内省内匠寮の仕事だ。鳩彦殿下の御居間と同じくヴォ-ルト天井を採用し、両者のつながりに配慮している。全体的に華美さを抑え、和風の感覚をとり入れた優しい空間で、収納スペースも他の諸室に比べて多い。庭園に向かって開かれたバルコニーも心地よく、「住みよさ」に深く配慮した設計がなされている。建物の竣工後、わずか半年で亡くなられる妃殿下へのつくり手の思いが感じられる感銘深い一室だ。
ラパン、ラリック、ブランショ、アングラン、シューブといったフランス人芸術家たちの競演。そこに日本の誇る精鋭集団、宮内省内匠寮が参戦し、建物はア―ル・デコの一大コロシアムと化す。鑑賞の対象としての美術館では群を抜く存在だ≫

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2020年04月23日

目黒駅 その二

目黒駅は、目黒区域でなく、品川区に立地する。
現在の目黒駅とバスターミナルである。高層ビル「目黒セントラルスクウエア」も立地する。

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どうして品川区に位置しているのか。
以前、目黒区に住んでいる人から聞いた話では、山手線(当時は品川線)がつくられるとき、品川から目黒川沿いを進み、目黒駅は目黒不動尊付近につくられる予定であった。
しかし、地元住人が、蒸気機関車の煤煙や振動が農作物に及ぼす影響を懸念して反対運動を起し、駅の場所を品川区上大崎の権之助坂上まで追い上げたのだ。というもの。
だが、鉄道関係者の間では、次のような見解が持たれているようである。
品川線当時は蒸気機関車で、電車ほどのパワーはなく、上り坂は苦手。そのため線路はなるべく高低差が少ないようにしたい。
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海抜の低い品川から、内陸の赤羽まで線路を敷く場合、その間は複雑な起伏があり、特に五反田から渋谷にかけての起伏が厳しく、蒸気機関車にとっては難所。
地形を検討したところ、目黒駅あたりを掘り下げて、切通にするのが最善だと考えたという。現在の目黒駅ホームが深い位置にあるのは135年前(明治18年)の、このような事情によるもの。
隣の五反田駅は高架ホームになっているが、それでも五反田~目黒間は、山手線で最も勾配がきついエリアである。

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2020年04月22日

目黒駅  その一

久米美術館は目黒駅前にある。では、この目黒駅はいつごろ出来たのか。
 この説明には山手線の歴史から語らねばならない。
 山手線は環状になっているので、端から端までを行ったり来たりする多くの路線とは異なり、ずっと乗ってぐるぐると回り続け、1週は34.5kmで、1週するのに約1時間。
 駅の数は令和2年(2020)開業の「高輪ゲートウェイ駅」を加え30駅。
山手線はJR東日本の路線の中で、平均駅間距離が最も短い路線で、駅間の距離が一番長いのは、品川~田町の約2.2kmだったが、高輪ゲートウェイ駅が出来たので、最長駅間は五反田~大崎の約2.0kmとなって、反対に駅間最短距離は西日暮里~日暮里の約0.5km。
山手線は、明治18年(1885)に品川~赤羽間(渋谷・新宿経由)が「品川線」として開業されたところから始まった。既に開業していた新橋・品川以南の現東海道線と、上野以北の東北本線を繋げる為の路線として。

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人口が多い下町の東側をさけて、当時は人の少なかった西側に線路が作られたわけ。この品川線に併せて開業したのが、渋谷・新宿・目黒・目白駅。つまり、目黒駅は明治18年に設置されたわけである。新橋・品川・上野はそれ以前に開業していた。
 その後明治36年(1903)には豊島線という名前で、田端~池袋間が開通。この時、田端方向と赤羽方向へ分岐する駅として池袋駅ができ、明治42年(1909)には赤羽~品川間、池袋~田端間、大崎~大井連絡所(貨物支線)間の路線が、正式に「山手線」と名付けられた。
1909年はまだ国鉄ですらない時代で。駅も増えたし名前も「山手線」になったが、この時点ではまだ現在の環状線ではなく「C」字形。
 その後、大正8年(1919)、東京まで開通した中央線と合わせて、中野(中央線)東京・品川・新宿・池袋・田端・上野の駅で、「の」字形での運転がされるようになった。
 大正14年(1925)になると秋葉原まで伸びていた東北本線と神田駅が結ばれ、東京~上野間の高架が完成したこともあり、ついに山手線が一つの円になり環状運転が開始された。

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2020年04月21日

「目黒の殿様」その二

何故に、久米桂一郎が金持ちなのか、また、この絵が目黒駅前の久米美術館にあるのか。
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この説明には岩倉使節団から語らねばならない。岩倉使節団とは、明治4年(1871)11月(新暦12月)から明治6年(1873)9月までアメリカとヨーロッパ諸国に、岩倉具視をリーダーとし、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された使節団である。

使節団の見聞は、帰国後『米欧回覧実記』として5冊にまとめられたが、これを書いたのが旧佐賀藩士の久米邦武で、久米桂一郎の父親である。
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この『米欧回覧実記』は、19世紀末のヨーロッパ文明の百科事典ともいうべきほどに、あらゆる文明事象を書き記していた。それ故、人々は大いにこの報告書を読み、版を重ね第四刷りまで発行された。
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久米は『米欧回覧実記』を完成させたときのことを、次のように回想している。(『東京の地霊』)
≪岩倉大使一行の米欧回覧実記の印刷製本は、此の年漸く(ようやく)完成して、之を天覧に供した処、(明治十一年)十二月二十九日金五百円の賞金を賜つた。当時、西南戦役の直後で、政府の財政信用は地に堕ち、対外為替の変動常なく、不換紙幣は低落の一途を辿る(たどる)のみで、不動産とするのが最も安全と考え、この賞金に補足して、白金台町の外れ(はずれ)権之助坂上に五千坪余の土地を購ひ入れた≫
「白金台町の外れ権之助坂上」とは目黒界隈のことだが、当時の目黒は≪植木溜のやうになって、実収は少ないが、富岳の眺望を楽しむ丈(だけ)の土地≫(『東京の地霊』)だった。その名残として、今でも目黒駅前の三田通りからは富士山をマンション建物の間から望むことができる。
それにしても『米欧回覧実記』の価値はすごい。5冊出版で土地5000坪入手できたのであるから、1冊1000坪に当たる。
久米邦武は岩倉使節団で帰国後、築地に居を構えていたが、明治8年(1875)に京橋の三十間堀に転居した。ここは明治の赤レンガで有名な銀座レンガ街一角に当たる。
銀座レンガ街とは、明治5年(1872)4月3日(旧暦2月26日)、和田倉門内兵部省添屋敷(旧会津藩中屋敷)から出火、銀座の御堀端から築地までの95万㎡(41町、4,879戸)を焼失した。焼死8人、負傷者60人、焼失戸数4874戸という記録が残るが、この大火の復旧にあたって、銀座地区の道路を拡幅し、レンガによる家屋を建設し、都市の不燃化を目指して造られた街並みで、明治10年(1877)5月に全体が完成した。その後、関東大震災で壊滅したが、邦武は明治8年に完成前のレンガ街に居住したのであるから目敏い。邦武の欧米見聞を積んだ成果でもあろう。
邦武は「白金台町の外れ権之助坂上」ほかにも「目黒不動の七八丁許(ばかり)西、戸越に約一万坪」も購入している。この結果「京橋の三十間堀」が事務所で、「戸越」の土地が菜園、「白金台町の外れ権之助坂上」の目黒が林間の山荘としたという。
後に邦武は土地の一部を日本麦酒醸造(現・サッポロホールディングス)に売却、これが現在の恵比寿ガーデンプレイスとなっている。

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2020年04月20日

「目黒の殿様」その一

コロナウイルス感染症による外出自粛以前は、よく目黒駅を利用していた。今は全く交通網とは無縁となったが、その目黒駅にはコロナウイルス対策散歩で時々行く。
 JR目黒駅西口に久米美術館がある。久米ビルの8階であり、美術館パンフレットに記載された地図は以下である。
IMG_20200420_0001 (2).jpg

パンフレット表紙に『久米桂一郎肖像』の絵が掲載されている。
IMG_20200420_0001 (3).jpg
この絵は黒田清輝が描いたものである。黒田清輝は東京外国語学校等を経て、明治17年(1884)から明治26年(1893)まで渡仏。当初は法律を学ぶことを目的とした留学であったが、パリで画家の山本芳(ほう)翠(すい)や藤雅三、美術商の林忠正に出会い、明治19年(1886)に画家に転向。ラファエル・コランに師事する。明治24年(1891)に『読書』、1893年には『朝妝(ちょうしょう)』がフランスの展覧会で入賞。同年アメリカ経由で帰国。明治29年(1896)に、滞欧時代に親しくなった久米桂一郎と共に白馬会を発足させた。
横に向いた桂一郎は、葉巻を口にして絵筆を走らせている。横顔の上にフランス語で描かれている。KÉIITCHIRO KOVMÉ LE SEIGNEVR DE MEGOVRO JANV 1897。KOVMÉとMEGOVROのVの字はUの字のことなので、KOVMÉは「久米」である。SEIGNEVRを仏語辞典で引くと「封建時代の領主・主君」とある。そこでこの絵に描かれたフランス文字は「目黒の殿様 久米桂一郎 1897年1月」と解される。(参照『東京の地霊』鈴木博之著 ちくま学芸文庫)
明治30年(1897)に黒田が親友の桂一郎を「目黒の殿様」と描いたわけだが、この当時は既に本来の「殿様」は消滅している。おそらく久米が裕福なのを茶化したのだろう。
では何故に、桂一郎が金持ちなのか、また、この絵が目黒駅前の久米美術館にあるのか。
次掲載に続く。

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経営ゼミナールの例会開催はいたしておりません

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正会員の募集はいたしておりません

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2020年04月19日

「環境条件下で、できることをする」

永井荷風が日本人は理想というものを持たず「その日その日を気楽に送ることを第一となすなり」と指摘しているという。(日経新聞 春秋 2020.3.29)
そうかもしれないが、今回のコロナウイルス感染症は、国民全員を一大不安にした。そこへ政府の緊急事態宣言、対象地域を2020年4月16日から5月6日まで全国に拡大した結果、外出自粛を要請された我々は、今までの生活スタイルを一変させることになった。
行動範囲が家庭内のみになり、食べて、寝る生活となって、不健康状態に陥りやすいので、各メディアからは家庭内でできる運動方法がいくつも提案されている。
筆者は、今までジムで行っていたストレッチを毎日食後に行って、血糖値を上げないようし、あとは散歩を大体60分程度するようにしている。
皆さんも、それぞれ工夫されていると思うが、その前提としては「自分」株式会社の社長という考え方がよろしいのではないかと思っている。
カナダ・ヨーク大学のモシェ・ミレブスキー教授が「人生100年時代の資産管理術」という本で著した言葉である。(日経新聞 大機小機 2020.3.31)
一人ひとりが「自分」株式会社の最高経営責任者(CEO)兼最高財務責任者(CFO)として、その企業価値を最大化していきなさい――とミレブスキー氏は教えてくれる。
この考え方を採用すれば、毎日の散歩も重要な要素に変化する。一般的に今まで自宅付近地勢に興味が薄く、会社と自宅を往復するだけであったのだから、コロナウイルス感染症は、危機を自己啓発に結びつけるツールになるかもしれない。
つまり、散歩に工夫が必要なのである。荷風が指摘する「その日その日を気楽に送る」のではなく、家庭内の運動と散歩しかなくなった環境条件下では、気楽な散歩から、散歩の積み重ねによって、何かを見つけ、何かを引き出すようにしたいものである。
会社ではトップダウンや計画があったわけだが、今はそことの連絡網が薄れている。だから、日々の営みの中において自分で見つけていくことから、そこから新たな方向性を生み出せるのではないか。いわばちょっとした「気づき」のようなものだが、積み重なると、時に大きな方向転換をもたらし、「創発」という可能性もあるだろう。
自らの事業基盤、知識基盤がいつディスラプトされるか油断ならない時代なのだからこそ、一人ひとりが「創発」の感度を磨く必要があるのではないか。
それを散歩という定まりきった行動の中で見いだしていく。このように考えて行動するならば、コロナウイルス感染症そのものはきわめて怖い存在だが、反面、「自分」株式会社の社長という脳細胞を活性化される糧に成り得るのではないだろうか。
次回からは筆者が行っている散歩から見出した何かをお伝えしていきたい。

投稿者 Master : 11:42 | コメント (0)

2020年04月18日

シアトルのIT企業経営者からの提言

Pacific Software Publishing, Inc.(シアトル)代表取締役社長  内倉憲一氏から次のアドバイスをいただきました。

危機
つい最近まで、誰もがこの数年間の経済成長を実感し、活気に満ち溢れていたと思います(トランプ政権への賛否は別として)。しかしながら、コロナウイルスパンデミックの影響を受け、今では未曾有の株価暴落の真っ只中にいます。レストランは閉まり、飛行機はキャンセルが相次ぎ、ホテルは空です。言うまでもなく、多くの人が職を失っています。職を失っても、命を守る方が重要だということでしょう。

私は、1987年に起業して以来、インターネット・バブル、サブプライム住宅ローン危機、9.11 を経験してきました。身近なところでは、シアトルのWTO抗議活動、データセンターの洪水、フィッシャープラザの電気火災などがありました。さらに言うと、ハッキング、DoS攻撃、ウイルスアタック、サーバーの故障などは常に起こり得ることで、我々は様々な危機に直面しては、その都度乗り越えてきたのです。

これらの危機から私が学び、心に留めていることを下記のリストにまとめました。

1. 危機が訪れた時、焦って決断をするのではなく、まず準備をします。私は、コロナウイルスパンデミックは予期しておりませんでした。
2. 現金を準備します。万が一の場合に備えた資金を準備しておくことで、パニックにならずに済みます。
3. 社員と密にコミュニケーションを取ります。社員と意見が合わないこともあるかもしれませんが、みんなから良い意見を引き出せるよう、話を聞き理解するよう努めます。
4. 冷静になります。リーダーがパニックになれば会社全体がパニックになってしまいます。あなたは舵を握る船長なのです。社員に焦っている姿は見せないでください。
5. 危機には終わりがあることを思い出します。意識を高く持ち、嵐が過ぎたあとの準備を始めます。

危機的状況にいるかどうかに関わらず、これらのことを常に意識するよう心がけています。「マーフィーの法則」や「ハインリッヒの法則」もその一つです。これらの法則について知らない場合は是非調べてみてください。

コロナウイルスの危機にも必ず終わりが来ます。その時の準備はできていますか?

投稿者 Master : 11:45 | コメント (0)

シアトルのIT経営者から

Pacific Software Publishing, Inc.(シアトル)代表取締役社長  内倉憲一氏から次のアドバイスをいただきました。

危機
つい最近まで、誰もがこの数年間の経済成長を実感し、活気に満ち溢れていたと思います(トランプ政権への賛否は別として)。しかしながら、コロナウイルスパンデミックの影響を受け、今では未曾有の株価暴落の真っ只中にいます。レストランは閉まり、飛行機はキャンセルが相次ぎ、ホテルは空です。言うまでもなく、多くの人が職を失っています。職を失っても、命を守る方が重要だということでしょう。

私は、1987年に起業して以来、インターネット・バブル、サブプライム住宅ローン危機、9.11 を経験してきました。身近なところでは、シアトルのWTO抗議活動、データセンターの洪水、フィッシャープラザの電気火災などがありました。さらに言うと、ハッキング、DoS攻撃、ウイルスアタック、サーバーの故障などは常に起こり得ることで、我々は様々な危機に直面しては、その都度乗り越えてきたのです。

これらの危機から私が学び、心に留めていることを下記のリストにまとめました。

1. 危機が訪れた時、焦って決断をするのではなく、まず準備をします。私は、コロナウイルスパンデミックは予期しておりませんでした。
2. 現金を準備します。万が一の場合に備えた資金を準備しておくことで、パニックにならずに済みます。
3. 社員と密にコミュニケーションを取ります。社員と意見が合わないこともあるかもしれませんが、みんなから良い意見を引き出せるよう、話を聞き理解するよう努めます。
4. 冷静になります。リーダーがパニックになれば会社全体がパニックになってしまいます。あなたは舵を握る船長なのです。社員に焦っている姿は見せないでください。
5. 危機には終わりがあることを思い出します。意識を高く持ち、嵐が過ぎたあとの準備を始めます。

危機的状況にいるかどうかに関わらず、これらのことを常に意識するよう心がけています。「マーフィーの法則」や「ハインリッヒの法則」もその一つです。これらの法則について知らない場合は是非調べてみてください。

コロナウイルスの危機にも必ず終わりが来ます。その時の準備はできていますか?

投稿者 Master : 10:11 | コメント (0)

2020年04月17日

渋谷時流塾

渋谷時流塾は新型コロナウィルス対策でしばらく開催を中止いたします。

投稿者 Master : 11:42 | コメント (0)