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2020年04月26日

東京都庭園美術館 その三 アール・ヌーヴォーとアール・デコ

現在、東京都庭園美術館は新型コロナウイルスで休館中である。開館していれば以下のような内容が展示されている。
庭園美術館.JPG

上の企画「東京モダン生活」を理解するためには、前提認識としてアール・ヌーヴォーとアール・デコについて触れなければならない。

アール・ヌーヴォーとは、十九世紀末から二十世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開花した国際的な美術運動で「新しい芸術」を意味する。
花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線の組み合わせによる従来の様式に囚われない装飾性や、鉄やガラスといった当時の新素材の利用などが特徴で、新しい美術工芸運動であるが、これには日本美術の影響が大きかった。
 幕末から明治にかけて、新しく門戸を開いた日本の工芸品に初めて接し、精巧な技術の駆使、写実的でありながら、自然界や人生の生死転生を象徴する造形美に驚嘆し、ここからジャポニスム(日本熱、日本心酔)としてパリを中心として広がり、それがアール・ヌーヴォーにつながった。 
 『ガラス入門』(由水常雄著 平凡社 1983年)から紹介したい。
 ≪そのモットーとするところは、「新しい素材による新しい表現」であり、運動の中心的な展開は、工芸分野から始まった。そして、新しい素材としてもっとも注目されたのが、ガラスであった。ガラス工芸家ばかりでなく、画家や彫刻家や建築家が、こぞってこの新しい素材の中にあるすばらしい表現の可能性に注目して、ガラス工芸を手がけるようになった。その結果、ガラスは、あたかも数千年の眠りから醒めたかのように、新鮮な息吹きをもってよみがえってきたのであった。アール・ヌーヴォーのガラス作品の魅力は、その新鮮な表現と新しい可能性の展望を追及した点にある≫(149頁)
 ≪ローマ時代以来、ガラス工芸では無色透明の水晶のように美しいガラスを作りだすことが最高の目的とされていたが、アール・ヌーヴォーのガラス工芸では、無色透明よりも色彩の美しさの方に強い関心が寄せられた。透明で均一な色ガラスよりも、おぼろげに透けてみえる微妙な色合いが好まれた。半透明の複雑な色合いをしたガラスで、たんねんに作りあげられたその作品には、人間の理性と技とこころの一体化した表現が、無意識に意図されている。それは、十九世紀中頃から起こってきた産業主義による均一俗悪な機械製品への、強い反撥と警告を意味していた。アール・ヌーヴォーの運動が多くのジャンルの美術家や思想家、そして全ヨーロッパを巻き込んで爆発的な展開を見せた理由の大半もそこにあった≫(149、150頁)
 ≪アール・ヌーヴォーのガラス工芸に最初の礎石(そせき)を置いたのはパリのウジェーヌ・ルソー(一八二七~九一)とフランス東部の町ナンシーのエミール・ガレ(一八四六~一九〇四)であった。ともに一八七八年のパリ万博に出品した作品が、評論家たちの絶賛を受け、ガラス工芸に世人の関心をひきつける動機を作った≫(150頁)

エミール・ガレ.jpg
(ガレ自身の手による自画像)

≪このパリとナンシーの、ともに日本芸術に触発された二人のガラス作家によって、ヨーロッパのガラス工芸は、従来の冷たい技巧的な表現の世界から、暖かみのあるリリカル(叙情的)な美的表現の世界へとひきあげられていった。ガラスの世界は、このとき新しい可能性に満ちた二つの扉を開いたのであった。そして、ガレやルソーの後から続々とすぐれたガラス作家たちが誕生して、ガラス工芸史上、最高水準の作品が作りだされていった≫(150頁)
 『ガラスの道』(由水常雄著 中央公論新社 1988年)から補足する。
 ≪一九〇〇年のパリ万国大博覧会では、あらゆる表現がアール・ヌーヴォー様式一色に塗りつぶされるほどに、まさに「栄光のアール・ヌーヴォー」「アール・ヌーヴォーの大勝利」と謳歌されるほどまでに、怒涛のごとくヨーロッパを席巻していった≫(312、313頁)
 ≪眼をみはるかすばかりに急成長を遂げたアール・ヌーヴォー運動ではあったが、一九〇四年にアール・ヌーヴォーの主導者エミール・ガレがこの世を去ると、まるで今までの現象が嘘であったかのように、あらゆる展覧会場から、アール・ヌーヴォー様式は、姿を消していった≫(315頁)
このように、十九世紀末から二〇世紀初めにかけて、全ヨーロッパに熱病の如く爆発的な流行をみせたアール・ヌーヴォーであるが、その生命を完全に燃焼しつくしたのである。

投稿者 Master : 2020年04月26日 09:58

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