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2020年05月04日

目黒火薬製造所 その一

目黒火薬製造所については目黒区役所ホームページに「歴史を訪ねて」として2013年10月1日に掲載されている。
 「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものである。
(江戸時代)
「同時二十六日昼、四半よつはん時頃、荏原郡目黒在三田村、合薬(鉄炮に用ふる所の品なり)の製所に、過って火を発す。其響四、五里に聞えたり。即死・怪瑕の者七十余人といふ」
江戸時代末に刊行された「武江年表」の、文久3年(1863)9月26日の項の一節である。
ペリーをはじめ諸外国船の来航、尊王攘夷勢力の過激な反幕運動など、幕末の深刻な政情不安は、江戸近郊の平和な農村だった目黒にも及んできた。幕府が三田村に建設した砲薬製造所の数回にわたる爆発の記録にも、その様子がうかがわれる。

(幕末に設立)
安政4年(1857)、幕府は、軍事上の必要から三田村の新富士辺より一軒茶屋上、広尾水車道までの約4万坪の地域に、それまで千駄ヶ谷にあった焔硝蔵えんしょうぐら(火薬庫)を移転し、さらに中目黒村内の三田用水より上目黒村・中目黒村・下目黒村の田んぼへの分水口下に、砲薬調合用の水車場を建てる計画を打ち出した。
もちろん、村民らは火薬の爆発を恐れたが、お上の言うことには逆らえない。しぶしぶ承知する代わりに、用水の分水口を村の決めた所に作ること、地代金を支払うことを幕府に認めさせた。こうして目黒砲薬製造所がつくられ、幕府の軍事力強化に一役買ったのである。

「武江年表」とは
『武江年表』(ぶこうねんぴょう)は、斎藤月岑が著した江戸・東京の地誌。「武江」とは「武蔵国江戸」の意。徳川家康が江戸城に入った天正18年(1590)から明治6年(1873)までの市井の出来事が編年体で纏められている。正編が嘉永3年(1850年)、続編が明治15年(1882年)に出版された。
 火事・地震などの天災や気象情報、町の存廃、幕府の布告、著名人の死去、開帳などの催事や流行り物、その他の時勢が網羅され、江戸・東京の歴史を知る上で欠かせない史料である。

文久3年(1863)9月26日の「武江年表」記載内容
上京途中の島津久光の一行が豊後国鶴崎より海路兵庫に向かう。
天誅組の水郡英太郎が和歌山に到着し、倉ケ谷の牢獄に入る。
天誅組が遁走する。天誅組の中山忠光ら一行7人は、桜井から2Kmばかり東北の三輪山の麓に潜伏していた。
昼四半時頃、江戸荏原郡目黒在三田村合薬(鉄砲に使用)の製造所で誤って火を発する。その響き4、5里に聞こえる。即死、怪我人70余人と云われる。
新選組に潜入していた長州の間者御倉伊勢武、荒木田左馬之允、楠小十郎の3人は、新選組屯所の前川邸で斬殺され、越後三郎(松山良造)、松井龍三郎、松永主計の3人は脱走する。
オールコックが日本に帰任する際、ラッセル外相から与えられた一般的な訓令で下関遠征関連では
第6項
提督が海兵隊を上陸させて、我々の商船の通航を妨害する明白な目的をもって建設され、しかもなんらかな敵対的な行動によって、その敵対的な意図をあきらかにした砲台を破壊することが望ましいと考えた場合、提督は貴下の同意をえて、それを実施する権限を有すること。
第7項
しかし、その敵対的な意図が敵対的な性質をもつ行動によって明確にしめされないかぎり、貴下は砲台の破壊をくわだてるべきではなく、提督もそれを命ずる権限を有しないこと。
木村摂津守喜毅が、城中において、矢田堀が代理で、老中より「願之通御役御免の旨」正式に言い渡される。木村摂津守喜毅が軍艦奉行を退く。
 

投稿者 Master : 2020年05月04日 09:33

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