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2014年03月10日

3月14日の渋谷時流塾開

渋谷時流塾のご案内

3月14日の渋谷時流塾開催のご案内です。

今月は「トランジット・ポイント」について考察します。
「トランジット・ポイント」とは「閾値(いきち)・スレッシュホールド」とも言いますが、
ある一定の感覚・知覚から反応が変わってしまうポイントのことです。
このポイントをつかむことで、変化点を把握でき、結果として自らの人生へ反映させられます。
また、ウクライナ情勢の報道と、明治維新の外国へ報道された146年前内容との比較を通じて、報道のとらえ方を分析します。


講師  山本紀久雄

会場  ㈱東邦地形社 8階会議室

住所  渋谷区神宮前6-19-3 電話03-3400-1486
      JR渋谷駅東口 宮益坂下交差点から明治通りを原宿方向へ徒歩3分
      渋谷教育学園・渋谷中学高校学校前

日時  3月14日16:00から18:00

会費  1000円

ご参加ご希望の方は、直接、会場にお願いいたします。

投稿者 Master : 10:53 | コメント (0)

2014年03月06日

2014年3月5日  山岡鉄舟が道徳教科書に

YAMAMOTOレター
環境×文化×経済 山本紀久雄
2014年3月5日  山岡鉄舟が道徳教科書に

文部科学省「私たちの道徳」

2月は山岡鉄舟にとって素晴らしい出来事が続いた。
最初は文部科学省。2月14日に新年度から全国の国公私立小中学校に無償配布する道徳用の新教材「私たちの道徳」を公表したが、その中学二年生教科書の中で山岡鉄舟が取り上げられたことである。

今回の道徳教科書の配布は、従来の「心のノート」を全面改訂したもので、国内外の偉人伝などの読み物を盛り込み、ページ数を約1.5倍に増やし、いじめ問題への対応などのほか、「日本人としての自覚」を深める記述も数多く盛り込ませ、日本人が昔から大切にしてきた「美しい心」とは何かを考えさせる内容となっている。
文科省・鉄舟.jpg
(1ページ全部鉄舟掲載の下段部分)
鉄舟は「2.人と支え合って」項目の「(5)認め合い学び合う心を」の中で「この人に学ぶ・人物探訪」として登場している。

更にうれしいことは、鉄舟の業績は江戸無血開城と明治天皇の扶育であるが、上記のようにほぼ妥当に記していることである。

江戸無血開城は西郷隆盛と勝海舟の二人で決めた?

実は、世上、江戸無血開城は西郷隆盛と勝海舟の二人で決めたと、流布されているのが一般的である。

その一例が、某教科書出版社から発行されている中学一年の道徳教科書である。西郷を「はかりしれない人間の大きさ」の人物として紹介しているが、その中で次のように記している。

「勝は幕府を代表して、総攻撃の中止を求めるため西郷に会見を申し入れ、両雄は、江戸城明け渡しという難局で再開しました。当時の思い出を勝海舟は『氷川清話』の中で次のように述べています。
当日のおれは、羽織袴で馬に乗り、従者一人連れたばかりで、江戸にある薩摩屋敷に出かけた。(中略) さて、いよいよ談判になると、西郷は、おれの言うことをいちいち信用してくれて、その間、一点の疑念もはさまなかった。
『いろいろ、むずかしい議論もありましょうが、私が一身にかけてお引き受けします』
西郷のこの一言で、江戸百万の人々の生命と財産とを保つことができ、また徳川家も滅亡を免れたのだ」

芝5丁目の記念碑と結城素明画
IMG_0020.jpg

JR田町駅近く、都営浅草線三田駅を上がったところ、第一京浜と日比谷通り交差点近くのビルの前に「江戸開城 西郷南洲 勝海舟 会見の地 西郷吉之助書」と書かれた石碑が立っている。その石碑の下前面、向かって左側に「西郷と勝の会見画銅板」、真ん中に「この敷地は、明治維新前夜慶応4年(1868)3月14日幕府の陸軍参謀勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた『勝・西郷会談』の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所である・・・。」と書かれ、向かって右側に高輪邉繒圖が描かれている。

実は、この銅板が問題なのである。画に西郷と勝しかいない。当日は鉄舟も同席していたのに、二人だけのシチュエーションとなっている。

さらに、神宮外苑の聖徳記念絵画館に掲示されている壁画「江戸開城談判」(結城素明画)の影響が大きい。
結城素明画.jpg
聖徳記念絵画館は、明治天皇・昭憲皇太后の御聖徳を永く後世に伝えるために造営されたもので、明治天皇のご生誕から崩御までの出来事を壁画として年代順に展示していて、その一つが左の壁画であるが、これによって二人の会見で江戸無血開城が行われたというイメージを醸成付加させた。

出版社に出向く

二つ目の素晴らしいことは、教科書出版社に出向き、以下のように説明したところ、修正印刷してくれることになったことである。

「貴社は、勝海舟『氷川清話』の『西郷と江戸開城談判』を引用され記述されていますが、これは明治28年8月15日の『国民新聞』の『氷川伯の談話(二)』に掲載されたもので、この時、海舟72歳。
海舟は、氷川神社のそばに寓居し77歳で亡くなりましたが、幕末維新のすべてを見聞き、かつ自由な隠居の身で好きなことを話せる男は海舟しかいなかったので、氷川の寓居に、東京朝日の池辺三山、国民新聞の人見一太郎、東京毎日の島田三郎らがしょっちゅう訪れて、海舟の談話を聞き書きした。それを人よんで『氷川清話』といいます。

吉本襄が大正3年に新聞連載を編集し直し、日進堂から刊行した『氷川清話』が有名ですが、吉本襄があやしげな換骨奪胎をしているので、江藤淳と松浦玲が編集し直し、さらに相当の補充をして、講談社から決定版ともいうべき『勝海舟全集』全22巻が出版(昭和48年)されています。

しかし、『氷川清話』の『西郷と江戸開城談判』は、『江戸無血開城』に至るまでの史実経緯をかなり省いておりますので、その史実について以下ご説明させていただきたい」

と述べ、次のような説明を行った。

「鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜は、上野・寛永寺に謹慎し、和平の意を伝えるべく朝廷と縁故ある使者を何人も派遣したが、いずれも失敗。最後の手段として慶喜護衛役の旗本・山岡鉄舟に使者を命じた。

命を受け鉄舟は、軍事総裁の勝と初めて面談、慶喜の命令を伝え、直ちに新政府軍が充満している東海道筋に向かい、多くの危難を切り抜け、駿府(現・静岡市)で新政府軍参謀の西郷と会談を持った。

西郷からは和平5条件を示され、4条件は受け入れたが『慶喜公を備前藩(新政府軍)に引き渡す条件は絶対に受け入れられない。もし立場が逆であったとしたら、あなたは自分の主君を敵に引き渡せるか』と君臣の情からの鋭い論理と、決死の気合いによって反論、西郷を説得・約諾させ、ここに事実上の江戸無血開城が決まった。

江戸に戻った鉄舟は、直ちに慶喜と勝に報告、江戸市中に高札で和平成立を布告した。勝は日記で『山岡氏帰東。駿府にて西郷氏に面談。其識高く、敬服するに堪たり』と鉄舟を称賛した。鉄舟による駿府での西郷説得の前提があって『西郷と勝による江戸城無血開城会談』が成立したのである」

また、この歴史史実で使用した史料「海舟日記」と鉄舟直筆の「西郷隆盛氏と談判筆記」を示したことで、出版社はこの申し出を受け入れ、次回印刷文から修正するとの発言を得ることができた。

なお、「氷川清話」の取り扱いは慎重にすることが望ましいとも加えてお伝えしたところ、頷いてくれた。
静岡記念碑.jpg
ところで、写真の石碑は静岡駅近くの「西郷・山岡会見之史蹟」である。刻字されている文言は「ここは慶応四年三月九日東征軍参謀西郷隆盛と、幕臣山岡鐡太郎の会見した松崎屋源兵衛宅跡で、これによって江戸が無血開城されたので明治維新史上最も重要な史蹟であります」と、高さ1.5メートル、横幅は1メートルの御影石で、向かって右に鉄舟、左が西郷の顔が銅板ではめ込まれている。

歴史が、あるつくられたストーリーで語られ、そのストーリーが素晴らしいと、その方向へイメージが重なっていき、事実として巷間誤認されていく。

特に、教科書は子供にとって絶対的なものであるから、ここでの記述は慎重にしたい。

その意味で、鉄舟の文部科学省記述と、某教科書出版社の修正に満足しているところ。以上。

投稿者 Master : 09:52 | コメント (0)