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2013年09月24日

渋谷山本時流塾のご案内

渋谷山本時流塾のご案内

日本人は「想定外」の事件に弱い民族だと世界からいわれています。

日本は昔から「想定外」のことが起きない前提で社会を構築し、巧みに治安と便利性に富んだ国づくりをした結果、世界でも稀に見る「安全・安心・清潔」な国になり、それが日本の魅力になって、東京オリンピック招致成功につながっています。

だが、世界は常に変化し続けていますし、日本も同様ですから、常にその変化を見つめて行くことで、少しでも「想定外」事件予知へと結びつけたいものです。

しかし、日頃からあまりに細かい・精緻な変化を拾い探り続けると、逆に時代の方向性を誤ることになって、経営や人生に問題を与えかねません。

これらに対処していくために重要な一つの必要条件は、時代を分析した外部の視点・見解を聞いた上で自らが判断し、自分の行動基準を定めて行くことでしょう。

つまり、他者と自分の両者見解から、諸問題に対応していく生き方を構築することです。

渋谷山本時流塾はそのお手伝いをする現代の寺子屋です。

時流分析家の山本紀久雄が、世界と日本の動向を大局的な観点から分析し検討した内容を、毎月、皆さんにお伝えいたします。渋谷という東京の繁華街の真ん中で開いており、どなたでも歓迎で、直接、会場へお出でいただきたくお待ち致しております。

名称   渋谷山本時流塾
講師   山本紀久雄 1940生 経営コンサルタント 山岡鉄舟研究家 時流分析家
開講   毎月第二金曜日 16時から18時
参加費 1000円
会場   ㈱東邦地形社 渋谷区神宮前6-19-3 東邦ビル8階会議室
     電話 03-3400-1486
(JR渋谷駅東口 宮益坂下交差点から明治通りを原宿方向へ徒歩8分
                   渋谷教育学園渋谷中学・高等学校前)


投稿者 Master : 10:06 | コメント (0)

2013年09月20日

2013年9月20日 日本は「つなぎ・絆」大国(下)

YAMAMOTOレター
環境×文化×経済 山本紀久雄
2013年9月20日 日本は「つなぎ・絆」大国(下)

サッチャーイズムでの祭り開催

前号でお伝えしたウィスタブル牡蠣祭りの始まりは1985年、マーガレット・サッチャー政権下。第二次世界大戦後のスローガン「ゆりかごから墓場まで」によって「英国病」となり、マーガレット・サッチャー政権下で経済立て直しへ大転換、以後、今のイギリスがあり、ウィスタブル牡蠣祭りも存在する。

そのサッチャー氏、7月8日に87歳で死去し葬儀が7月17日、ロンドン中心部のセントポール大聖堂で、1965年のチャーチル氏の国葬以来の、エリザベス英女王の出席と、国内外の要人ら約2300人が参列、1千万ポンド(約15億円)という葬儀費用を要して国葬が営まれた。

サッチャー氏は、国を開いて海外マネーを呼び込む金融立国で成長を実現し、貧富の格差は開いたが、経済優先という国造りでの貢献をイギリス政府が国葬という形で認めたのである。これと同じくウィスタブル牡蠣祭りも地元経済の発展に開催されている。

洲崎神社祭り

一方、日本の祭はどういう実態なのか。日本には各地に多くの様々な祭りがある。町おこし、地元経済対策を目的とした祭りも多いだろうが、これらとは一線を画す祭りもある。

 そのひとつが千葉県館山市の洲崎神社祭りで、2013年8月21日(水)に訪問してみた。
館山市は、千葉県房総半島の突端南部に位置し、歴史的には房総半島の戦国大名"里見氏"の本拠地であり、神社仏閣が多く、市内各地において催される祭りが数多く、内容も多彩であることで知られている。この館山市、通常の日本地図ではなく南北逆さにしてみると、弧を描く日本列島の頂点に位置していることが分かる。見方を変えれば館山は日本の中心ともいえるだろう。


館山駅に行くには東京駅からJRと高速バスがある。洲崎神社は、館山市の最西部、海にせり出した岬の突端に位置している。東京湾を航行すると、この岬を境に海の姿は一変し、広大な太平洋へと視界が開け、沖合は潮の流れが速い海上交通の危険個所で、沖を通る船は海上安全を祈願して洲崎神社を篤く信仰、その信心は東京湾内に広がった。

洲崎神社本殿・拝殿へは、勾配30度急坂147段の石階を上る必要がある。一気に上るのは息が切れ、途中で一休みが必要となるほどである。15時、拝殿前には白丁(はくちょう)姿の若衆と、見物の客が集まる。

神社は御手洗(みたらし)山の中腹にある。中腹の神社拝殿から見渡す海の景観は絶景で、その境内に白丁姿の神輿担ぎ手が集まり、宮司からお祓いを受け、いよいよ神輿担ぎを始めた。

まず、拝殿前の境内を何回も神輿が勢いよく揉み回る。見物客も神輿の勢いに押され隅の方に追いやられるほどである。

ここで疑問を持ったのは白丁姿である。今まで各地のお祭りで見た神輿担ぎ手の衣装は半纏、腹巻、股引、足袋であった。ここは全員白丁姿。

この白丁とは何か。ハクテイともいうが、古代律令制のもとで、公の資格を一切持たない無位無官の一般男子が着用したものであり、神事や神葬などに物を持ち運ぶ人夫をいう(広辞苑) とあり、祭りでの衣装として館山の祭りで定着している。

さて、拝殿前の境内を何回も勢いよく揉み回った神輿は、いよいよ勾配30度の147石階段を降り出す。普通に降りても危ない急勾配、そこを重い神輿を担ぎながら、それも左右に揉みだして、下がるのであるから、白丁の担ぎ手は必死の形相、見ている方もハラハラ、洲崎神社祭りのハイライトである。
 
 
神輿は拝殿前での揉み時間を含め、約30分かけて石段を降り、随身門をくぐり、そこで一旦休憩する。今日の気温は34度。白丁姿から汗が滴り落ち白衣が皮膚にまとわりつく。

 再び、リーダーのかけ声で、今度は浜辺へ神輿が渡御するため動き出す。浜辺の鳥居をくぐったところで、再び、神輿を休め、全員お神酒で乾杯。無事に渡御できたことを祝い、海に対する感謝の神事を行うための準備でもあり、宮司がいよいよ米とお神酒をお払いしながら海に向かう。この一瞬のために大勢の白丁姿が大汗を掻いて神様を神輿に乗せてお運びして来たのである。時刻は16時を過ぎ、夕陽が沈み始めた。ここまで約1時間10分要している。

 厳かな儀式を終えると、再び、147段上の神社に神輿を奉納するため、大勢の白丁姿が担ぎ始める。見ていると海に面した鳥居に入る前の道路、そこで揉みだした。なかなか鳥居をくぐらない。もうくぐるかと思うと引き返し、左右に動き揉み回す。 見ている方が焦れるほどの時間を要している。ようやくリーダーのかけ声で鳥居をくぐり、随身門を通って147段の石段を上っていき、無事、神社本殿前に到着した。17時半である。

 怪我人もなく洲崎神社祭りは終了し、白丁姿のまま、ということは汗をかいたままであるが、社務所の広間で直会(なおらい)である。寿司や鶏のから揚げ、サラダなどが大盛りで出され、リーダーから「お疲れ様」の挨拶とともにビールで乾杯。

 その輪の中に入れていだいて「大変だったでしょう」と声掛けると、すきっとした笑顔が頷き「でも、楽しかったですよ」と語る。これが本音だろう。その証拠に全員の眼が澄んで、眼差しに満足感が漂っている。 あの鳥居の前で随分時間をかけて揉んでいましたね、と一人に尋ねると「あぁ、あれは神様と一体化する儀式で、憑依(ひょうい)ですよ」とさりげなく語る。 これにはビックリした。思わぬ言葉が出てきたと思う。憑依とは、霊などが乗り移ることを意味し、一種のトランス状態ともいえるが、洲崎神社祭りの白丁姿の若衆から憑依ですよと聞くとは思わなかった。

神輿を担ぐことで、神を意識しているのだ。日本人しか分からない感覚だと思うが、そのような純粋な気持・心理が一人ひとりの白丁姿に横たわっているのだ。

 穏やかに直会が続く中、数人の白丁姿が「今日はありがとうございました。これで失礼します」と席を立つ。聞いてみると東京の品川から来ていて、これから帰るのだという。今日は会社を休み参加した。洲崎の方も品川の祭に来てくれるので、そのお返しで来たと、当然のごとくに語る。

 リーダーが話してくれる。この洲崎神社祭りも地域人口減で、地元民だけでは開催できなくなっている。隣の坂東地区からも手伝いの担ぎ手が来てくれているように、各地との神輿つなぎネットワークがこの祭りを支えてくれているのだという。

 そうなのか。洲崎神社の祭りは各方面からのつながり、それは祭り神輿を通じた関係ネットワークによって今でも昔通りの祭が催すことが出来ているのだ。

 そういえば、この洲崎祭りにはビジネスの匂いのかけらもない。この祭りで町おこしをしようとするのではなく、昔からの伝統をそのまま守っていくという意識だけが祭りを支え、それを手助けしようと各地から駆けつける。純粋・無垢だと思う。

 この状況をどのように理解したらよいのか。南浦和駅事件や東北大震災時に発揮された日本人の助け合い、その行動を「精神」という言い方でまとめるのは、的を外しているとはいわないが適切ではないと思う。精神というより、もっと日本人が持つ内面・奥底にある気持ち、それは「つながり・絆」がそうさせたのではないかと思う。

もともと昔から日本人は祭りと共に生きてきた。それはとりもなおさず神仏と共に生きてきたことになる。つまり、神仏との「つながり・絆」で生きているのが日本人で、それがいざという時、咄嗟に顕現し発現するのでなかろうか。

ウィスタブル牡蠣祭りにはイギリス人が、洲崎神社祭りには日本人が現れている。以上。

投稿者 Master : 08:36 | コメント (0)

2013年09月06日

2013年9月5日 日本は「つなぎ・絆」大国(上)

YAMAMOTOレター
環境×文化×経済 山本紀久雄
2013年9月5日 日本は「つなぎ・絆」大国(上)

南浦和駅事件

さいたま市のJR南浦和駅で2013年7月22日(月)、乗客の30代女性が電車から降りようとした際、足を踏み外し、右足が電車とホームの間の約10センチの隙間に入ってしまった。ホームにはい上がろうとしたが、左足も落ち、へその辺りまで隙間に入ってしまった。

転落に気づいた客がホームに設置された「列車非常停止ボタン」を押し、駅事務所から駅員が駆けつけ、2人の駅員が女性を引っ張り出そうとしたが、うまくいかず、別の駅員がとっさに車両を両手で押したところ、周囲の乗客や別の駅員も押し始め、その数は約40人に達した。「押しますよ! せーの! 」という駅員のかけ声に合わせて押すと、重さ約32トンの車両が傾き、ホームとの隙間が広がった。2人の駅員が女性を引っ張り上げると、乗客から拍手や歓声がわき起こり、万歳をして喜ぶ人もいた。女性に目立ったけがはなく、駅員や周囲の乗客に「自分の不注意で落ちてしまい、ご迷惑をおかけしました。助けていただきありがとうございました」と深々と頭を下げたという。

昭和電工相談役・大橋光夫氏の見解
 南浦和駅事件へのコメントが2013年8月6日(火)日経新聞夕刊に次のように寄せられた。


 大橋氏の「精神大国」という表現は、何となく大掴みの感がする。もう少し範囲を絞ったワードで定義した方がよいと思うので、イギリスと日本の祭りから検討してみたい。

ウィスタブル牡蠣祭り
 
2013年7月26日(金)、ロンドン・ヒースロー空港から約160km離れたケント州、ロンドンの南東に位置するウィスタブルWhitstableへ車で向かった。約2時間で到着。この街で牡蠣祭りが27日(土)から一週間にわたって開催される。

ウィスタブルはカンタベリー司教区に属している。カンタベリー大聖堂は、イギリス国教会の総本山であり、カンタベリー大聖堂の身廊は素晴らしい。身廊とはキリスト教聖堂内部の、中央の細長い広間の部分で、入口から祭壇(内陣)までの間を意味し、天空に向けて伸びるが如く柱が林立している。14世紀の垂直式ゴシック様式建築である。

このカンタベリーから約8キロ北に位置しているウィスタブルは、「ケントの真珠」とも称されるように、潮風が香る風光明媚な牡蠣の町。

ウィスタブル牡蠣の歴史はローマ時代にまで遡り、ローマ帝国でもネイティブ・オイスター(ヒラガキ)が大人気で、当時はウィスタブルに専用の牡蠣採集施設が作られ、何千というネイティブ・オイスターが、ローマにはるばる運ばれていたと伝えられる。

 このウィスタブルの牡蠣祭り、いつから始まったのか。それを語ってくれたのはDr Clive Askerで、Asker夫妻とロイアル・ネイティブ・オイスターROYAL NATIVE OYSTER STORESと表示された格式ある建物とつながっているWhistable Oyster Fishery Company
のレストランで夕食をとった。Dr Clive Askerは、ウィスタブル牡蠣祭りを企画した人物なのである。

この祭り開始は1985年だが、そのはじまりのきっかけは、ウィスタブルの海では、元々ネイティブ・オイスターを採るだけで、マガキ牡蠣養殖は殆ど行われていなく、マガキの稚貝をフランスに売るのが中心であった。

ところが1982年のこと、この年は大量の稚貝が採れたが、フランスでも同様で輸出が激減、やむを得ず地元で牡蠣養殖する必要が出てきて、祭り企画につながったのだが、その前にイギリスの牡蠣に対する意識変化を話したいという。

18世紀・19世紀のイギリスでは、牡蠣に対する人々の評価は低かった。それにはロンドンにおける水状況が影響している。当時の水はとても汚かった。なぜかというと、18世紀のロンドンでは、下水設備と、井戸水や圧水による上水設備が入り混じっていたので、人口過密地区に住み、公共上水道を頼りにしている貧しい人々は、汚染された水を飲むことになり、下痢・赤痢・腸チフス・コレラなど、口から入るもの、とりわけ飲料水から伝染する病気が多発していた。人々の意識には、水によって健康を害されたという、水へのイメージ悪化、結果として水で育つ牡蠣はよからぬものと評価された。その後の水の改善とともに、ようやく1920年頃から牡蠣に対する認識が正常化して来たという経緯がある。

1982年当時のウィスタブルでは、レストランが一軒しかなく、一般店舗も少なかった。その状況下で開催時期を、夏場の7月にした理由は、セント・ジェームズの日St James's Dayがあり、カンタベリー大聖堂が牡蠣シーズンの終わりに、漁師たちに感謝の意を述べ、子供たちが提灯行列するなどの催しが昔からあったので、それに合わせたのである。

はじめて開催した1985年、商工会議所が頑張ってくれ順調なスタートを切り、翌年はもっとうまく行った。その背景に商工会議所が店に働きかけ、店頭を祭りらしく華やかに飾り、店内も奇麗にした結果、大勢の人が来てくれ、現在のような盛大な催しになった。

 この日の14時45分から開催されたロング・ビーチLong Beachでの開始セレモニーの様子を紹介したい。カンタベリー大聖堂の司祭によるお祈り、市長の挨拶があり、挨拶の内容は牡蠣に感謝するというもので、次に主催者の商工会議所の挨拶、その合間合間に地元の楽団が演奏し、30人くらいの男女、海辺にふさわしいダンスを踊る。何となくアフリカっぽく感じるが、全員常にニコニコ顔で愛嬌をふりまく。

さて、司祭の祈り、市長の挨拶が終ると、沖合から茶色の帆をつけた船が浜辺に到着し、両手の駕籠に牡蠣をいれた三人の漁師が船を降りて、司祭の前まで進み、司祭からから祝福を受ける。開催セレモニーはこれで終わりである。
 
その後は、ロング・ビーチから一般道路に出て、仮装行列パレード行進で、様々な企画によって期間中、街は人で溢れかえるが、実は祭りが始まった1985年は、マーガレット・サッチャー政権下であった。「ゆりかごから墓場まで」によって「英国病」となり、サッチャー政権下で経済立て直しへ大転換、以後、今のイギリスがある。ウィスタブル牡蠣祭りも、このサッチャーイズムを受け入れ、町の繁栄対策として行われた。次号に続く。以上。

投稿者 Master : 08:44 | コメント (0)