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2020年05月01日

東京都庭園美術館 その八 朝香宮鳩彦王(2)

朝香宮鳩彦王は明治20年(1887)、久邇宮朝彦親王の第8王子として生まれ、明治39年(1906)に朝香宮家を創設。「朝香」の名は明治天皇より賜ったもので、父・朝彦親王が伊勢神宮祭主を務めていたことにちなみ、伊勢国朝香山から採られた宮号である。明治43年(1910)に明治天皇皇女允子内親王と結婚する。

その後、大正11年(1922)にフランスに留学するが、翌年、義兄の北白川宮成久王の運転する自動車が交通事故を起こし、この事故で成久王は薨去。同乗していた鳩彦王は重傷を負う。怪我の療養のためフランス滞在が長引いたことで、フランス文化により長く触れることになった。特に、看病のため渡仏した宮妃とともに大正14年(1925)のパリ万国博覧会(アール・デコ博)を観覧し、同様式に対して強い関心と理解を示した。
後の昭和8年(1933)に完成した東京都港区芝白金台町の朝香宮邸(現・東京都庭園美術館)は日本の代表的なアール・デコ建築とされている。
下の写真は完成当時の朝香宮邸である。
朝香宮邸完成当時の.jpg
昭和22年(1947)、GHQの命令により皇籍離脱。公職追放を受けた。また、朝香宮邸を外務省に有料で貸し出し、これは外務大臣公邸として一時期事実上の総理大臣公邸の役割を担っており、「目黒公邸」とも呼称された。
東京裁判や南京裁判などで、上海派遣軍司令官として南京事件で「捕虜の殺害命令」に関与した疑いでGHQから戦犯に指名される可能性があったが、皇族として戦犯指定は受けなかった。
熱海の別荘に居を移して株式投資などのほか、ゴルフ三昧の悠々自適な生活から「ゴルフの宮様」として知られた。数多くのゴルフクラブの会長・名誉会長を務めたが、その中で昭和5年(1930)に鳩彦王が名誉会長を務める「東京ゴルフ倶楽部」が埼玉県に移転した際、移転先の膝折村が朝香宮にちなんで昭和7年(1932)5月1日に朝霞町(現朝霞市、宮号をそのまま使うのは畏れ多いとして一字を替えた)と改称されている。

投稿者 Master : 2020年05月01日 10:00

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