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2020年05月03日
東京都庭園美術館 その十 白金火薬庫
明治13年(1880)から昭和3年(1928)にかけて、目黒区三田には東京砲兵工廠所管の目黒火薬製造所という軍需工場があり、また、目黒火薬製造所から山手線の線路を挟んだ東側の白金台には、白金火薬庫という陸海軍の火薬倉庫があった。
東京砲兵工廠目黒火薬製造所は目黒の都市化とともに昭和3年(1928)、群馬県岩鼻村へと移転し、跡地には海軍技術研究所が入って艦の設計や技術開発などが行われるようになり、その流れで今は防衛省艦艇装備研究所となっている。
この地の主管が陸軍から海軍に変わる数年前の大正6年(1917)、火薬の運搬先であった白金火薬庫が陸軍省から宮内省へと委譲され白金御用地となり、白金火薬庫軍用線はその役目を終えたものと思われる。
火薬庫の残照が遺っていると言われている写真が以下で、茶屋坂児童公園の近くにあるという。
明治期から大正期にかけて、目黒は火薬製造の町だったとは!!
その白金火薬庫の一部に朝香宮邸があり、今は東京都庭園美術館になっているとは!!
以下は防衛 研究所戦史研究センター資料から引用したものである。
「東京砲兵工廠目黒火薬製造所」敷地図
現在の防衛研究所が所在する目黒地区は、明治 11 年に海軍の火薬製造所として建設が 進められて明治 18 年に完成したのち、明治 26 年に陸軍へ引き継がれて砲兵工廠所轄の目 黒火薬製造所となった。そして、軍用火薬や坑山用火薬の製造及び貯蔵を行い、明治 26 年度は 12 万kgでしかなかった火薬製造量は、順次、設備の拡充に努めた結果、明治 30 年度には 55 万kgに達した。 その後、大正 12 年に発生した関東大震災の影響で、設備は他へ移転して目黒火薬製造 所は廃止されることとなり、替わって海軍技術研究所が築地から移転した。 写真の敷地図は、明治 31 年頃に作成されたものであり、現在の学校地区はまだ用地買 収されていないことから、図には描かれていない。なお、防衛研究所が位置する部分には、 火薬製造所の本部事務所が建てられていたことがわかる。(「文庫-千代田史料-672」、防衛 研究所戦史研究センター史料室蔵)
投稿者 Master : 2020年05月03日 10:36