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2020年04月21日

「目黒の殿様」その二

何故に、久米桂一郎が金持ちなのか、また、この絵が目黒駅前の久米美術館にあるのか。
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この説明には岩倉使節団から語らねばならない。岩倉使節団とは、明治4年(1871)11月(新暦12月)から明治6年(1873)9月までアメリカとヨーロッパ諸国に、岩倉具視をリーダーとし、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された使節団である。

使節団の見聞は、帰国後『米欧回覧実記』として5冊にまとめられたが、これを書いたのが旧佐賀藩士の久米邦武で、久米桂一郎の父親である。
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この『米欧回覧実記』は、19世紀末のヨーロッパ文明の百科事典ともいうべきほどに、あらゆる文明事象を書き記していた。それ故、人々は大いにこの報告書を読み、版を重ね第四刷りまで発行された。
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久米は『米欧回覧実記』を完成させたときのことを、次のように回想している。(『東京の地霊』)
≪岩倉大使一行の米欧回覧実記の印刷製本は、此の年漸く(ようやく)完成して、之を天覧に供した処、(明治十一年)十二月二十九日金五百円の賞金を賜つた。当時、西南戦役の直後で、政府の財政信用は地に堕ち、対外為替の変動常なく、不換紙幣は低落の一途を辿る(たどる)のみで、不動産とするのが最も安全と考え、この賞金に補足して、白金台町の外れ(はずれ)権之助坂上に五千坪余の土地を購ひ入れた≫
「白金台町の外れ権之助坂上」とは目黒界隈のことだが、当時の目黒は≪植木溜のやうになって、実収は少ないが、富岳の眺望を楽しむ丈(だけ)の土地≫(『東京の地霊』)だった。その名残として、今でも目黒駅前の三田通りからは富士山をマンション建物の間から望むことができる。
それにしても『米欧回覧実記』の価値はすごい。5冊出版で土地5000坪入手できたのであるから、1冊1000坪に当たる。
久米邦武は岩倉使節団で帰国後、築地に居を構えていたが、明治8年(1875)に京橋の三十間堀に転居した。ここは明治の赤レンガで有名な銀座レンガ街一角に当たる。
銀座レンガ街とは、明治5年(1872)4月3日(旧暦2月26日)、和田倉門内兵部省添屋敷(旧会津藩中屋敷)から出火、銀座の御堀端から築地までの95万㎡(41町、4,879戸)を焼失した。焼死8人、負傷者60人、焼失戸数4874戸という記録が残るが、この大火の復旧にあたって、銀座地区の道路を拡幅し、レンガによる家屋を建設し、都市の不燃化を目指して造られた街並みで、明治10年(1877)5月に全体が完成した。その後、関東大震災で壊滅したが、邦武は明治8年に完成前のレンガ街に居住したのであるから目敏い。邦武の欧米見聞を積んだ成果でもあろう。
邦武は「白金台町の外れ権之助坂上」ほかにも「目黒不動の七八丁許(ばかり)西、戸越に約一万坪」も購入している。この結果「京橋の三十間堀」が事務所で、「戸越」の土地が菜園、「白金台町の外れ権之助坂上」の目黒が林間の山荘としたという。
後に邦武は土地の一部を日本麦酒醸造(現・サッポロホールディングス)に売却、これが現在の恵比寿ガーデンプレイスとなっている。

投稿者 Master : 2020年04月21日 09:47

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