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2020年05月06日

目黒火薬製造所 その三

目黒区役所ホームページに「歴史を訪ねて」として2013年10月1日に掲載されている内容を続ける。

(再び移転)
もともと目黒には産業といえるほどのものはなかったが、それでも明治初期以来、灌漑(かんがい)用の三田用水を利用して精米・製粉をする水車は少なくなかった。水車の数は明治40年には、大崎、目黒を中心に49カ所に上る。日本麦酒や火薬製造所などの大工場も、動力源として、また、生産の過程で、大量の水を必要としたため、三田用水を利用できることを前提に、ここに設立されたわけで、目黒の工業の発展の歴史は、同時にまた、三田用水が農業用水から工業用水に変わってゆく過程でもあった。

そんななかで、火薬製造所と村民の間に、しきりに水争いがくり返されるようになる。三田用水組合文書には、明治24年、目黒村民がこぞって製造所の多量の用水使用を府知事に訴え出た記録が残っている。
しかし、昭和に入って、目黒に人家が増え、商店・工場も建てられると、火薬製造が危険ということで、昭和3年、幕営時代から70年余、三田にあった火薬製造所もついに群馬県岩鼻村へ移転することになる。目黒の工業化の元祖ともいうべき製造所が、他の工場などの進出によって追い出されたわけである。
火薬製造所跡地の大部分は、海軍技術研究所を経て、現在、防衛省防衛研究所となっている。

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三田用水と茶屋坂隧道跡表示

投稿者 Master : 2020年05月06日 09:51

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