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2020年05月05日

目黒火薬製造所 その二

目黒区役所ホームページに「歴史を訪ねて」として2013年10月1日に掲載された内容を続ける。

(明治期に発展)
明治維新後、新政府は、内乱の鎮圧と対外進出に備えて兵器・火器の補強を図るため、新たに火薬製造所の建設場所を捜していた。
そして、白羽の矢が立ったのが、旧幕営砲薬製造所跡の目黒の三田村である。三田村が2度も火薬製造所に選ばれたのは、目黒川・三田用水・豊富な湧水など水利に恵まれ、茶屋坂上の高台から目黒川にかけての傾斜地が、火薬生産に必要な鉄製水車を回すのに適していたからである。

明治12年、田畑をつぶして道路を開き、水路工事に反対する村民の抵抗をしりぞけて三田用水に玉川上水をひき入れ、翌年、東西1町16間、南北4町10間、面積2,000坪に及ぶ目黒火薬製造所が完成した。
ドイツ製の設備を導入し、ドイツ人を製造技師に迎えて、明治18年、いよいよ操業を開始。製造した火薬は、海軍や鉱山用に使われて、生産額もしだいに増加した。

明治26年、海軍省の管理から、陸軍の東京砲兵工廠こうしょうへ移管された。
日清戦争が始まると、軍用火薬の需要が増大したため、目黒火薬製造所は、隣接の土地を買収して建物10棟、機械30台を増設したが、終戦とともに需要が減り、拡張した設備や労働力の整理に苦しむことになる。

そんななかで、日露戦争が勃発。火薬製造は再びブームを迎え、夜を徹して増産につぐ増産が行われた。そして、終戦。目黒火薬製造所は、小銃・山砲・野砲用などの軍用火薬ばかりでなく、鉱山火薬・猟銃用火薬などを一手に引き受けて、独自に発展の道をたどる。
目黒火薬製造所地形図.gif
一万分一地形図東京近傍十三号(大正5年大日本帝国陸地測量部発行)

明治時代の二大戦争によって成長した目黒火薬製造所は、明治44年、それまでの水力および蒸気による動力を、渋谷発電所から供給される電力に切り換えるなどの近代化を行った。大正6年、職工数は男女合わせて367人を数えた。当時目黒で100人以上の規模を持つ工場は、日本麦酒のみであった。

投稿者 Master : 2020年05月05日 09:30

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