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2014年01月21日

2014年1月20日 タイへの関心事・・・その一

YAMAMOTOレター
環境×文化×経済 山本紀久雄
2014年1月20日 タイへの関心事・・・その一

昨年12月から今年の1月5日まで、3回のレターでお伝えしたウラジオストク状況、何人の方から関心を持たれた。ちょうど2月にはソチ冬季五輪が開催され、ソチ開催ではテロと人権問題が話題となっている。だが、隠れた大問題としてロシア人の無愛想、笑顔のなさ、おもてなしが欠けていることを指摘したことが、関心を持たれた理由と思っている。

今号と次号ではタイを取り上げたい。今のタイ、政治対立が新聞に出ない日はないほど毎日報道されている。今までに何回もタイに行った経験と、この対立が始まった昨年11月にもタイを訪問した体験を加え分析したいが、それにはタイという国を「見る眼」、それをタイの立場に置き換えなければならないと思う。

タイの政治対立
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タイの政治が混迷のきっかけは、2013年10月31日にインラック首相(タクシン元首相の妹)率いる与党のタイ貢献党が、恩赦法の対象に急遽政治指導者を追加し、翌日11月1日に下院で強行採決したことからであった。

この法律の対象に国外追放されたタクシン元首相が含まれていたことから、反タクシン派はデモや大規模集会を開催した。結局、法案は上院で否決されて廃案となったがデモは収まらなかった。反政府のデモ隊はタクシン体制を打倒するまでデモを継続する姿勢を示し、財務省や外務省などの政府機関や国営タイ放送などの放送局を占拠した。そして反タクシン派のリーダーであるステープ前副首相が最終決戦とした12月9日、インラック首相は下院を解散することを表明した。総選挙は2014年2月2日に実施される予定。

民主主義は選挙で決まるのではないのか?

多数派であるタクシン派は選挙を通じた民主主義を重要視している。タクシン派の主な支持層は長年政治からほとんど無視されてきた農民である。タクシン元首相は2001年の選挙の時に農村支援を掲げて勝利し、首相に就任した後は農民債務モラトリアム、30バーツ健康保険制度などの積極的な農村振興策を次々に実施した。これらの政策の結果、農民の生活環境は劇的に改善した。こうして、農民は自らが政治に大きな影響を与え、それが自らの生活水準の向上に繋がることを自覚するようになった。

一方、都市部の中間層が多くを占め、少数派である反タクシン派は選挙をあまり重視していない。彼らに言わせれば、選挙をいくら行ってもタクシン派が貧しい農村部の住民を買収することで勝利するため、汚職と腐敗にまみれた政治家が誕生するだけであるという。

そのため彼らは議席の多くを医者、教員、弁護士、労働者等の協会の代表者から選出すべきであると主張している。

総選挙ではタクシン派が勝利するだろう

予定通り総選挙が行われれば、人口の半数以上を占める農村を支持基盤としているタクシン派が勝利する公算が大きく、タイ貢献党は総選挙の比例代表名簿第一位をインラック首相としていることから、このまま行けばインラック体制は継続する可能性が高い。

一方、反タクシン派は選挙ではタクシン派に勝てないと認識しており、選挙自体をボイコットしようとしている。また、ステープ前副首相は軍主催のフォーラムに出席するなど、選挙以外の手段で政権に揺さぶりをかけようとしている。

このように、両派の民主主義に対する考え方の溝は極めて深い。これまでも片方が政権を奪取すればもう片方がデモを行い、時には軍が出動して流血沙汰となることもあった。

今後も民主主義のあり方に対して両派が同じ認識を共有できなければ、タイの政治的混乱は終わらないのでないか、という指摘が多くタイの未来を悲観視する見方も多い。

だが、タイ人を分析していくと、今回の政治対立も何らかの解決策を、タイ人は自ら見出すと推察する。その推察根拠も含め、タイ人をいろいろな角度から検討してみたい。

タイの概要

 最初は全般的なタイ概要である。
①国土面積 51.4万平方㎞、日本の1.4倍、フランスとほぼ同じ。
②人口6600万人(2009年)。
③タイ王国、現国王ラーマ9世(プミポン国王)王は圧倒的信頼あり。
④民族はタイ族が最大多数、中国系等で民族間の争いはない。
⑤9割が仏教徒・上部座仏教・・・輪廻の思想で前世からの業カルマによって今ここに生きていて、今の境遇を受け入れ、善く生きることで来世にはよく生まれ変わりたい。⑥タイ人が日本と聞いて浮かべるもの・・・ 富士山がトップ
 
タイのしたたかな外交力

 日本とタイは長い外交関係があり、アジア諸国が欧米国の植民地化した地域の中で、お互い独立国としての地位を築いている。

 日本は第二次世界大戦で無条件降伏、連合国の占領体制下に一時陥ったが、タイは日本の同盟国として、日本と同様に英米に宣戦布告したのに、敗戦国とはならなかった。

日本が開戦した1941年12月8日、日本軍はマレーへの侵攻を目指して、タイ・ビブン首相から駐留の承認を得てタイに上陸、この結果タイも、日タイ同盟から米英に宣戦布告した。

ところが、日本軍の旗色が悪くなったころには、対米公使を通じ米英とひそかに通じ合う関係を築きはじめ、終戦になるとタイは、米英に宣戦布告したのは、国民の意志に反して行われたもので、手続き的にも瑕疵があり、あの宣戦布告は無効だと主張し、これを連合国側が受け入れ、日本と道ずれの敗戦国にならずに済んだという経緯がある。また、現在も親米であるのに、北朝鮮とも外交関係を保持している、というしたたかな外交力を持っている。

頑張るという言葉はないが頑張れる

タイ人は日本人よりも明確な意志を持たないし、明確な意志を持って仕事や勉学に励まない。例えば、日本の来ているタイ人に来た目的を聞くと、留学生なら「たまたま奨学金がもらえたから」「日本語ができると仕事が探しやすいから」、働きに来ている人なら「お金が稼げるならどこの国でもよかった」「バンコクは暑いから日本の方がよい」「親戚がいたから」

つまり、具体的な目標や明確に意志をもって、日本に来ている人はめったにいない。

したがって、インタビューしても相手が具体的でないので、引き出しができないから内容がそろわないということになる。例えば、ムエタイ選手にどうして選手になったのかと聞くと「楽しいから」「友達がたくさんいるから」「バンコクに住めるから」「親から離れて暮らせるから」というもの。目標とはという問いには「お金を稼ぎたい」「有名になりたい」がほとんどで「チャンピオンになりたい」という選手は一人もいない。しかし、明確な意志や目標がないのに、頑張るのがタイ人。ムエタイの選手は毎日厳しいトレーニングを自ら進んで積むし、試合では信じがたいほどの闘志で相手に立ち向かう。パンチやキックを受けても苦しそうな表情を見せないでファイトする。タイ人は意志なぞわざわざ立てなくても、成りゆきまかせで、やるときはやるのである。これがタイ人の真骨頂で、タイ語に「頑張る」に相当する言葉はないが「頑張れる」のである。(参照「極楽タイ暮らし」高野秀行著)

微笑みが武器

タイは「微笑みの国」といわれる。顔の造作からいえば、さして美人でない女性でも、笑顔は素晴らしく、日本ではお目にかかれない笑顔がタイ女性の魅力であるが、その笑顔にもいくつかのパターンが隠されている。

つまり、ニュートラルな微笑みなのだが、そこに「タイの微笑み」の真実があって、微笑みはタイ人の表情の基本となっている。どういう反応をしたらいいのかわからない時、日本人はとりあえずシリアスな顔をするが、タイ人はその場合、とりあえず「にっこり」とする。別におかしなことがなくても、笑みを浮かべるのが、タイ人の常態であり、処世術でもある。これが外国人への武器となる。

タイを検討すると、面白くてやめられなくなる。次号でもタイ人を検討したい。以上。

投稿者 Master : 08:25 | コメント (0)

2014年01月06日

2014年1月5日 ウラジオストク視察旅行会に参加して・・・その三

YAMAMOTOレター
環境×文化×経済 山本紀久雄
2014年1月5日 ウラジオストク視察旅行会に参加して・・・その三

ウラジオストクの三回目・最終回です。今号の最後に2月7日から始まるソチ冬季五輪に向けて、昨年12月5日にお伝えした「微笑みのないロシア」、これに対する対策が必死に行われている状況が、NYタイムスに掲載されましたので、その内容もご参考にお届けいたします。

3.ウラジオストクの未来と日本

① ウラジオストクの歴史
 ウラジオストクのある沿海州は、かつては中国の領土で、渤海や契丹、 金などがここを支配していた。

1858年、 アレクサンドル二世と清の文宗との間でアイグン条約(ウスリー江の東をロシアと清の共同管理地とする)が締結され、また、1860年には北京条約(沿海州をロシア領とする)が締結されて、ロシアの領土となった。

 ロシアがウラジオストクの街建設を始めた頃、 日本は幕末から明治への移行期であり、中国では英仏連合軍が北京を占領という動乱の時代の始まりであった。

 ウラジオストクというのはロシア語では「東方を征服せよ」という意味である。 ロシアは文字通りここにロシア海軍の軍港を築いた。

 1891年訪日後の皇太子ニコライが帰途ウラジオストクに立ち寄り、シベリア鉄道の起工式が行われる。その後、 ロシア革命など、激動の時代を経て、1932年には、ソ連太平洋艦隊の基地となり、第二次大戦後は、 軍港であると同時に工業都市としても規模を拡大し、現在のウラジオストク市内の姿が形作られた。
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ソ連時代は軍港として立入りを制限されていたが、1990年代に再び自由に訪問できる都市となり 海外からの大型客船も寄航する国際港になり、日本からは飛行機で約2時間という距離であるから観光客も増えている。
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② 日本との関係
 日本との関係について、ウラジオストクの極東連邦大学のモルグン・ゾーヤ教授の発表で紹介したい。(2012年4月13日 日本ウラジオ協会)

「最初にウラジオストクに来た日本人は1860年代に長崎から来た人たちです。大工(土木請負業者)やからゆきさんが多かったです。当時、ウラジオストクには建築が足りなかったし、ロシア女性も少なかったからです。からゆきさんと一緒に洋品店や理髪師も来ました。

 1876年、日本貿易事務館が開設されました。そのとき日本の領事はロシアの軍艦に乗って来ました。1880年代に入ると、日本人の数は増え、約400名と記録に残っています。

 1890年代に入ると、都市のインフラが飛躍的に発展します(91年にシベリア鉄道の沿海州地域が着工、93年に完成。モスクワとつながる)。街には日用品や装飾品などの商店が増えましたが、ウラジオストクは物不足のため、日本から多くの商店経営者が渡ってきました。日露戦争前の1903年には、3000人以上の日本人がいました。

 日本との航路は、幕末から長崎、函館などにロシア船の入港があったが、明治政府になってから長崎港を拠点として、極東ロシア、中国、朝鮮への航路が整備された。

しかし定期航路が開かれたのは比較的遅い。ロシア義勇隊艦隊が1877年にオデッサから長崎経由でウラジオストクへの定期航路を開設したが、便数が少なく、神戸~ウラジオストク間は1899年(日本郵船)、ウラジオストクへの最短距離である敦賀からは1902年(大家汽船)に開通した。

日露戦争開戦後、日本人の多くは帰国します。貿易事務館も閉鎖されました。しかし、1906年には多くの日本人が戻ってきました。その一部は中国のハルビンへ行きました。当時、ウラジオストクには杉浦商店や徳永商店などに加え、銭湯や写真館ができ、日本人が経営していました。09年頃には日本人経営の精米工場やミネラルウォーター工場などもありました。

 1914年、第一次世界大戦が始まりましたが、日露は友好関係にあり、この時期も日本人が増えました。17年にロシア革命が起こり、18年に日本のシベリア出兵が始まると、日本の軍人相手に商売する日本人も増え、5000人を超えるほどになりました。

 1922年、シベリア出兵が終わり、多くの日本人が帰国しました。

 1930年代に入ると、満州事変が起こり、以後、ウラジオストクは軍事基地にすることがモスクワ政府により決定されました。外国人は、日本人に限らず、中国人、朝鮮人も退去を命じられました。日本総領事館も1936年5月に閉鎖。

その後、日本人がウラジオストクに姿を見せたのは、1945年から53年頃まで、シベリア抑留者の労働キャンプが2つ置かれた時期です。彼らはスタジアムやビル建築、道路の改修工事の現場で働かされました。それから1992年までウラジオストクは対外的に閉じられた都市で、外国人は来ることができませんでした。

 1992年に対外開放されて、93年に日本総領事館がナホトカからウラジオストクに移転し、開設されました。現在は、三菱商事や住友商事、三井物産などの商社やNHKの支局など、在留日本人の数は80名くらいです。まだ少ないですね」
 
③ 最近のロシア経済

今から10年前の世界経済を振り返ってみたい。2003年から06年までの4年間、世界経済の実質成長率は年5.1%と高率だった。常識的な考えでは3%台の成長率でまず順調という見方であるから大変な成長率であった。

世界の消費の中心は米国、加えて、中国、インドが10%を超える成長をし、ロシアも2006年実質成長率6%台を達成し、世界経済全体に大きく貢献した。

つまり、当時はBRICsの成長率が、世界経済全体に大きく寄与していたわけで、ロシアも石油や天然ガスの輸出収入で国内を潤し、資金力を拡大した企業が積極的な拡大戦略をとり、中産階級にも浸透し、個人消費が旺盛となっていた。

 だが、今は変わった。2013年のロシア経済のGDP実質成長率は4月~6月が1.9%、7月~9月は1.2%となっているように、10前とは大違いの低迷状態である。

 その理由は明らかで、北米発のシェールガス革命等によって、最大の石油などの輸出が落ち込んでいる上に、効率の低い古い企業が競争の少ない分野で優位に立っているので、労働生産性は日本大企業の3~4分の1といわれているほど低く、経済の構造改革・技術革新が進んでいないからである。
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④  地政学から考える

ウラジオストクは日本から近い。この地理的観点から考えると、日本はウラジオストクに進出することが有利であろう。

事実、過去に日本は何回もウラジオストクに足を踏み入れている。だが、それも政治的理由から日本は遠のき、現在もモルグン・ゾーヤ教授が語るように進出企業は少ない。

地理的に魅力溢れるウラジオストク、しかし、地政学的に見ると問題が浮かぶ。地政学とは二つの前提で成り立つといわれている。

⑴「人間は自分の生まれついた環境、つまり、周囲の人々や土地に対して、自然な忠誠心を持っている」という前提。

⑵「国家の性格や国家間の関係が、地理に大きく左右されると想定する」という前提。

再び、ここでガイドが述べた言葉を紹介したい。彼は無愛想で口数は少ないが、時折、鋭く指摘する。さすがに伝統と歴史ある優秀な極東連邦大学出身である
バスの中で「ロシア人と日本人とは異なる特徴を持つ。列挙すると以下の4点になる」と述べた。

A 個人主義であり、且つ、その個人主義のレベル内容も人それぞれ皆違う。
B 行動判断の基準はお金である。義理や義務意識は全くない。
C 今日は今日。明日はこうなるからという思考を持たない。
D 文化を失っている。ここが中国人と似ている。

このロシア人の特徴、地政学前提⑴から生じているし、日本人の特徴も同様であるから、必然的に人間としての違いが発生する。だから、お互いの共同作業は難しい。

それに⑵が加わる。それはウラジオストクの歴史からも明らかである。清から割譲された時は帝政ロシア、その後ソビエト連邦構成共和国体制となり、1991年崩壊しロシアに戻ったように、政治体制を激変させ、中心産業も変化し続けている。農業国家の帝政ロシア、工業国家を目指したソ連、一時成功し低迷しだした今の資源国家ロシア。

つまり、相手方が時代とともに変わっていくのであるから、日本側の対応は難しい。相手の変化はチャンスだという考え方もあるが、地政学観点から予測すると、日本がウラジオストクでビジネスを成功させ、それを長期的に維持するのは苦しいと予測する。

しかし、地理的には最も近い外国で、現地情報は集めやすいという利点はある。現地情報が的確に集められれば、短期的なビジネスの成功はあり得るし、ロシア政治体制が激変しなければ継続的ビジネスも可能であるが、そのためには定期的な訪問を行い、現地と情報ネットワークを構築することが前提要件だろう。

清話会がそのような仕組みを構築し、会員に情報発信できるかにかかっている。

⑤ ソチ冬季五輪対策は笑顔の特訓から

昨年12月5日号で紹介した北斗画像診断センターの美女、あの笑顔は特別であって、ロシア全体に笑顔がないのが一般的。ここで困ったのが2月7日開催のソチ冬季五輪である。

笑顔の特訓に入る前に、北斗画像診断センターの北斗病院が日経新聞(2014.1.1)で最先端病院として紹介された。

さて、話はソチに戻るが、世界中から人がソチに集まってくる。ところが、ロシア人の誰もが笑顔で迎えないとしたら、ロシアの評判は一気に悪化する。加えて、爆弾テロ事件や、人権問題で欧米首脳の欠席表明が相次いでいて、ロシア人気はそれほど高くない。だから、オリンピック開催では、何としても無愛想評価を改善したいだろう。

そこで現在、ロシアでは「おもてなし」特訓中とのことで、その記事がNYタイムスに掲載された。

「ロシアのサービスと言えば、社会主義時代の名残で、ぶっきらぼうで無愛想というイメージを抱く人が多いかもしれない。だが、それも過去のことになりつつあるようだ。

『アンナ、いまお客様に無言でシャンパンをお出ししたわよね』

教官の声が飛ぶ。ここはアエロフロート・ロシア航空乗務員訓練センターだ。

『それはソ連流の接客よ。言葉をかけて、笑顔を忘れないで!』

アエロフロートには美男美女の客室乗務員はいくらでもいるが、愛想のいい乗務員にはまずお目にかかれない------そんな定評を、同社は接客教育を徹底することで覆そうとしている。

こうした取り組みは、外食企業や販売業などロシアのサービス業界全体に広がっている。米コンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニーのロシア支社幹部はこう話す。

『顧客第一主義はロシアの文化に馴染まないと思われてきましたが、最近はどの企業も接客指導に熱心ですよ』

かつてロシアでは『意味なく笑うのはバカな証拠』と言われたものだ。それがいまや、スターバックスのバリスタは他国のバリスタ同様に眩しい笑顔を振りまき、マクドナルドの店員は完璧なスマイルで『ご一緒にポテトはいかがですか』と勧めてくる。中間層が増加して個人消費が活発化したことにより、ロシアでも顧客サービスの質が問われるようになったのだ。

2月のソチ五輪はその試金石となる。案内係を務めるボランティアスタッフは接客マナーの特訓を受けて本番に臨むという。合い言葉は『笑顔で親切に』。

ロシア流『おもてなし』、まずはお手並み拝見といこう」

プーチン大統領もいろいろ心配事多く、大変だろうと同情する。

以上

投稿者 Master : 16:43 | コメント (0)