« 東京都庭園美術館 その三 アール・ヌーヴォーとアール・デコ | メイン | 東京都庭園美術館 その五 ルネ・ラリック »

2020年04月27日

東京都庭園美術館 その四 アール・デコとルネ・ラリック

エミール・ガレが亡くなった一九〇四年を境にして、アール・ヌーヴォー運動は急速に衰えていったが、その頃に台頭してきたのが、パート・ド・ヴェールの技法を使うアージー・ルソーとフランソワ・デコルシュモン、彫金作家から転向したルネ・ラリック、フォーヴィズムの画家から転向したモーリス・マリノなどであった。

『ガラス入門』(由水常雄著 平凡社 1983年)が述べる。
 ≪アール・デコとはアール・デコラティーヴ(装飾美術)の略でアール・ヌーヴォーのあとを受けて、一九一八年の第一次世界大戦から、第二次世界大戦の始まる一九三九年頃にかけて展開した現代的な美術様式である≫(151頁)
 この時代に登場したのが、後に香水瓶で一世を風靡するルネ・ラリックである。そこで次にラリックについて検討したい。

ラリックについては様々な文献があるが、その中から池田まゆみ氏(美術工芸史家)の『ルネ・ラリック――情熱、野心、創造』(国立新美術館 MOA美術館 東京新聞2009年「ルネ・ラリック」図録)から見てみよう。

≪彼についてしばしば尋ねられる質問がある。すなわち、「ジュエリー制作から、なぜ”突然”ガラスに移行したのか」、「これらの作品をすべて一人で制作したのか」、「これだけの作品を生み出したラリックは、どのような人物であったのか」という問いである≫(8頁)
この質問2項目は、
① 「ジュエリー制作から、なぜ”突然”ガラスに移行したのか」
② 「これらの作品をすべて一人で制作したのか」
であるが、これについて池田氏は以下のように解説している。

≪ラリックにおけるジュエリーからガラス工芸への移行は1900年から1910年の間に行われた。この時期彼はジュエリーの創作を手がけながら、ガラス工芸への転向を模索したのだった≫(15頁)
≪ラリックはなぜジュエリーを離れてガラスに向かったのだろうか。ラリックのジュエリーを特徴づけるエナメル(七宝)はガラスの一種に他ならず、ガラスはラリックにとって決して新しい素材ではなかった。ラリック様式(ジュエリーのアール・ヌーヴォー)が芽生え始めた1890年から、すでにテレーズ通り20番地の工房には小型のガラス窯があり、彼はガラスと格闘していた。そこで制作されたガラスの小品は、ジュエリー作家として初出品した1895年のサロンに出品されていた。翌年にはクリスタルガラスを用いた最初のジェリーが、冬景色をテーマにしたロシア向けの作品として制作されている。ガラスは古くから宝石のイミテーションとして重宝されていたが、ガラスを表現素材として積極的に用いたのはラリックが初めてであった≫(15頁)

≪ラリックのガラス工芸への夢を現実に変えたのは、香水商フランソワ・コティからの香水瓶製造の依頼であった。1890年代に芽生えていたガラスという芽を成長させる条件が整うまで、ラリックはじっとこの時を待っていたのではないだろうか≫(15頁)

≪パリ東方のコンブ=ラ=ヴィルの旧電球工場を借りて、1909年に香水瓶を中心としたガラス製品の量産を始め、1913年にはその工場を買い取り、文字通りガラス産業美術家となった。ラリックの作品は、それを機に機械を導入した量産品に変わった。彼はそれらの道具をアーティストとして使いこなすことで、美をより多くの人々の手に届くものに変えたのだ。ラリック社の商品台帳に基づくマルシアック氏編纂のカタログ・レゾネを参照すると、花瓶、香水瓶、蓋物、印章などを集めた項目は「オブジェ・ダール(美術品)」という名が充てられ、当時のラリック社が、アーティストの制作による芸術的なガラス器であることを示そうとしていたことがうかがえる≫(15頁)

≪1912年を限りにラリックはジュエリーの制作を止め、ガラス製造一本にエネルギーを集中してゆく≫(15、16頁)

投稿者 Master : 2020年04月27日 09:12

コメント