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2020年05月31日
目黒通り その十六 元競馬場(1)
目黒競馬場は1907年(明治40年)から1933年(昭和8年)まで、東京府の目黒村に存在した1周1マイルの競馬場(所在地は現在の東京都目黒区下目黒4-6丁目)。
現在の東京・府中の東京競馬場は目黒競馬場が移転したものである。1907年創設の日本競馬会(1936年設立の日本競馬会とは同名であるが別団体)が設立したが、1910年に東京競馬倶楽部に経営は移った。
山手線目黒駅、東急目黒線不動前駅(開業当時は目黒蒲田電鉄<現: 東京急行電鉄>)、東急東横線祐天寺駅(開業当時は東京横浜電鉄<現: 東京急行>)の3駅とほぼ等距離で、1km余り離れた場所に位置していた。
現在の目黒区下目黒4-6丁目あたりの地図である。元競馬場前バス停や元競馬南泉公園という公園がある。
2020年05月30日
目黒通り その十五 国立科学博物館附属自然教育園(2)
現在、コロナ対策で自然教育園は閉鎖されているが、門前を通ると園内樹木の薫り高い匂いが道路まで繰り寄せている。何とも言えない樹木の薫りである。
自然教育園は江戸時代・高松松平家の下屋敷であり、松平家は徳川御三家水戸徳川家の支系で、親藩・御連枝のひとつ。水戸藩初代徳川頼房の長男松平頼重を家祖とする。
嘉永・慶応「江戸切絵図」(尾張屋清七板)によると以下である。
2020年05月29日
目黒通り その十五 国立科学博物館附属自然教育園(1)
自然教育園を含む白金台地は、洪積世(20~50万年前)海食によって作られました。
いつ頃から人が住み着いたかは不明ですが、園内から縄文中期(紀元前約2500年)の土器や貝塚が発見されていることから、この時代には人々が住んでいたと考えられます。
平安時代には目黒川、渋谷川の低湿地では水田が開墾され、台地の広々とした原野には染料として欠かせなかったムラサキの栽培も広範囲に行われていたと考えられています。室町時代に入ると、この地方にいた豪族がこの地に館を構え、今に残る土塁は当時の遺跡の一部と考えられています。この館の主が誰かは不明ですが、白金の地名は永禄2年(1559)の記録に初めてあらわれ、太田道灌のひ孫の新六郎がこの地を治めていたことが記録されています。また、いわゆる「白金長者」であったという言い伝えも残っています。
江戸時代になると、増上寺の管理下に入りましたが、寛文4年(1664)には、徳川光圀の兄にあたる高松藩主松平讃岐守頼重の下屋敷となり、園内にある物語の松やおろちの松などの老木は、当時の庭園の名残であろうと思われます。
明治時代には火薬庫となり、海軍省・陸軍省の管理となり、大正6年(1917)宮内省帝室林野局の所管となり、白金御料地と呼ばれました。
その後、昭和24年文部省の所管となり、「天然記念物及び史跡」に指定され、国立自然教育園として広く一般に公開され、昭和37年国立科学博物館附属自然教育園として現在に至っています。
2020年05月26日
目黒川の生き物 その一 蛇
目黒川には様々な生き物がいる。
目黒川は桜で有名だが、この川を観察していると、時に、妙な生き物に出合う。
船入場で蛇が泳いでいた。
2020年05月25日
目黒通り その十四 ゆかしの杜 港区郷土博物館
2018年(平成30年)11月1日(木曜日)白金台のゆかしの杜に港区立郷土歴史館が開館しました。建物は、昭和13年に建築された旧公衆衛生院の歴史的に貴重な外観や内部の講堂などを保存改修して活用しています。郷土歴史館では、出土した縄文土器やクジラの骨格標本など、本物に触れたり、プロジェクションマッピングやタッチパネルを活用しながら港区の自然・歴史・文化を学ぶことができます。また、ミュージアムショップやカフェもあり、歴史を知り、交流できる施設です。
2020年05月24日
現在、ゆかしの杜となっている場所は、目黒通りの瑞聖寺の向かい側で、東大医科学研究所の隣に位置している。
この地には旧国立公衆衛生院(The Institute of Public Health)があったが、2002年(平成14年)に改組・廃止された、日本の公衆衛生の向上を目的とした調査研究機関であった。
公衆衛生院の建物および設備は、アメリカ・ロックフェラー財団から日本政府への寄贈である。援助額は当時のお金で総額350余万ドル。世界保健機関 (WHO) は国立公衆衛生院を「School of Public Health(公衆衛生大学院)」として紹介している。
2002年(平成14年)4月1日付けで組織が改組され、国立感染症研究所の一部などと共に国立保健医療科学院となり、多極分散型国土形成促進法により現在は埼玉県和光市に移転している。
旧建物は文化財的価値から保存され、ゆかしの杜として2018年にオープンした。
2020年05月23日
目黒通り その十二 東大医科学研究所
安政3年(1856)古地図で見ると、瑞聖寺の向かい側辺りが東大医科学研究所である。
東京大学医科学研究所のホームページに、以下のように紹介されている。
「明治25年(1892年)に北里柴三郎博士により設立された大日本私立衛生会附属伝染病研究所を前身とし、昭和42年(1967年)に医科学研究所に改組されました。この明治、大正、昭和、そして令和へと受け継がれてきた128年の歴史を背景に、医科学研究所は生命現象の普遍的な真理と疾患原理を探究し、革新的な予防法・治療法の開発とその社会実装による人類社会全体への貢献を目指しています。そのために、情報科学、理学、工学、農学、薬学、医学、倫理・公共政策学などの様々な学問が「医科学」をキーワードとして互いに触発して発展する自由で学際的な研究環境を重視し、個々の研究者や医療者が、それぞれの知的好奇心に突き動かされて行う独創的な研究、技術開発、先端医療を推進しています」
「具体的には、感染症やがん、免疫・神経・筋疾患などの難治性疾患の制圧を目指し、ゲノム医学、再生医学、疾患モデル動物などを課題とするプロジェクト型研究を展開すると共に、遺伝子・ウイルス治療や細胞治療、ワクチン開発、AI医療等の先端医療開発を推進しています」
「以上の課題を達成するために、医科学研究所には自由な発想に基づく基礎・橋渡し研究を推進する基幹研究部門として基礎医科学部門、癌・細胞増殖部門、感染・免疫部門の3部門が設置され、また、多様な研究成果の社会実装に必要な最重要課題に取り組むセンター・施設として、生命科学に特化した国内最大の演算性能をもつスーパーコンピュータ(SHIROKANE)を擁するヒトゲノム解析センターや先端医療研究センター等の8センター、5研究施設が設置されています」
「さらに、国立大学附置研究所では唯一の附属病院では、世界トップレベルの研究成果に基づく臨床試験や先端医療が進められています。その上に、昨年、我が国の附置研究所の中で、生命科学系では唯一の国際共同利用・共同研究拠点に認定され、世界的な枠組みでの基礎・臨床研究が加速されています」
「現在、本体である白金台キャンパスに加え、アジア感染症研究拠点(北京)や奄美病害動物研究施設(奄美大島)等にも教職員を派遣するなど、本学大学院の8研究科に所属する200名超の学生を含め、1,000名を超える教員、事務・技術・病院職員、研究員等が活躍しています」
大規模な研究所ということが分かる。
2020年05月22日
目黒通り その十一 瑞聖寺(3)
庫裏は、中央の水盤を囲むようにコの字型に設計されている。これは開かれた寺院をイメージしての配置とのこと。
水盤の上でイベントを行ったりすることもあるとのこと。
2020年05月21日
目黒通り その十一 瑞聖寺(2)
瑞聖寺の大雄宝殿および通用門1棟は昭和59年(1984年)東京都指定有形文化財に指定され、平成4年(1992年)に国の重要文化財に指定された。
現在は寺の北側の目黒通り側が境内入口になっているが、本来こちらは裏門で、寺の東側が正式の入口であった。
もと目黒通り側にあった高麗門形式の旧通用門(重要文化財の附指定)は、明治時代に東側に移築されている。
東側の道路は八芳園に面しており桑原坂の表示がある。
2020年05月20日
目黒通り その十一 瑞聖寺(1)
瑞聖寺は寛文10年(1670)に創建された。開山(初代住持)は日本黄檗宗2代の木庵性瑫である。木庵は日本黄檗主の祖・隠元隆琦の招きで明暦元年(1655年)に中国・明から来日し、寛文5年(1665年)に江戸入りした。開基(寺院創設の経済的基盤を提供した人物)は摂津麻田藩(大阪府豊中市)の2代藩主・青木重兼である。重兼は黄檗宗に深く帰依し、晩年には家督を譲って出家している。江戸時代には江戸の黄檗宗の中心寺院として「一山之役寺」と呼ばれていた。
江戸名所図会によると山門・天王殿・大雄宝殿・禅堂等を備えた巨刹であったが、文政年間に大規模な罹災あう。現大雄宝殿は高輪下馬将軍として名高い薩摩藩主・島津重豪により扁額を与えられる共に再建されるに至る。
2020年05月18日
目黒通り その十 聖心女学院(3)
細い道に聖心女学院の案内ポールが立っている。
この案内ポールの奥が聖心女学院であるが、用事のない人は入らないよう掲示されている。
2020年05月17日
目黒通り その十 聖心女学院(2)
聖心女学院は「すぐ先の角を左折400㍍先」と書かれている。
すぐ先の角とは以下である。
細い道は30メートルくらい先で右に折れる。
右に折れた先はずっと奥まで続いている。
2020年05月16日
目黒通り その十 聖心女学院(1)
目黒通りの日吉坂に聖心女学院への道筋が小さく表示されている。
2020年05月15日
目黒通り その九 八芳園
八芳園は東京都港区白金台に所在する、1万2000坪の敷地内に庭園のあるレストラン・結婚式場である。明治学院大学、シェラトン都ホテル東京と近接している。庭園の名称は「四方八方どこを見ても美しい」に由来する。
江戸時代前期には譜代の江戸幕府旗本・大久保忠教(彦左衛門)の屋敷(但し、現在の園全域ではなく一部が彦左衛門の屋敷地)であったが、その後薩摩藩の抱屋敷、島津氏(松平薩摩守)の下屋敷を経て、明治時代に渋沢喜作の手に渡る。
以下の安政3年時地図で、松平薩摩守斉彬とあるのが八芳園の土地。
1915年(大正4年)、実業家・久原房之助邸宅時に現在の建物と庭園が整備された。戦後久原(当時公職追放中)は、銀座や築地で料亭などの経営を手がけていた長谷敏司に、海外からの旅行者(賓客)向けに、日本庭園を生かした本格的な料亭の共同経営を持ちかけ、自ら「八芳園」と命名し1950年(昭和25年)に創業。数年後全面的に長谷側の所有となり、経営が本格化した。現在の八芳園は株式会社八芳園により運営され、結婚式場やパーティなどにも広く利用されている。
入口の表示
門はコロナウィルスで閉鎖されている。
桑原坂に面している。
2020年05月14日
目黒通り その八 シェラトン都ホテル東京
シェラトン都ホテル東京は、旧藤山愛一郎(元外務大臣・国務大臣経済企画庁長官・日本商工会議所会頭・東京商工会議所会頭・日本航空初代会長等を歴任)邸跡地である。
建物は、世界貿易センタービルなどで知られるアメリカの建築家ミノル・ヤマサキの設計。内装と庭園は日生劇場などで知られる村野藤吾の設計であったが、2000年以降の改装により村野のデザインの大部分は失われ、低層階(地下2階〜1階)の内装の一部や階段等にその名残りを残すのみである。
1996年にカールソン・ホテルズ・ワールドワイド(現:カールソン・レジドール・ホテルズ)と提携し、英語名のみをRadisson Miyako Hotel Tokyoとした。
その後2003年には日本語名もラディソン都ホテル東京と改称したが、2007年には、カールソンとの提携を解消すると同時にスターウッド・ホテル&リゾートと提携し、2007年4月1日シェラトン都ホテル東京と改称した。
2020年05月13日
目黒通り その七
清正公前交差点を目黒通り入って歩くと「シェラトン・都ホテル」がある。
「シェラトン・都ホテル」がある場所を安政3年(1856)時の江戸地図『復元・江戸情報地図』(朝日新聞)で表示する。
2020年05月12日
目黒通り その六 大石内蔵助切腹の場所
目黒通りに面していないが、覚林寺前の桜田通りを渡って天神坂の急坂を上りきり、左に歩いていくと都営高輪アパート団地があり、その建物の間に以下の石碑が建っている。
この先に入って行くと東京都教育委員会の指定旧跡板がある。
さらに「赤穂義士史跡碑」もある。
17名の義士の名前も表示されている。
実際に切腹した場所は以下である。門があって中には入れない。
2020年05月11日
目黒通り その五 山手七福神巡り出発寺 覚林寺
覚林寺は「江戸山手七福神」巡りのスタート地点でもある。
「江戸山手七福神」は江戸最初といわれ江戸城の裏鬼門守護のため、将軍の鷹狩りの際に参詣した「目黒の不動堂(瀧泉寺)」の参詣道筋に設置された江戸時代から続く、江戸最初の七福神巡りである。
巡り方でご利益の中身が違ってくると言われている。
下図の□内の寺院(恵比寿神・弁財天・大黒天)から、〇内の寺院(福禄寿尊・寿老人尊・布袋尊・毘沙門天)へお参りするのを「商売繁盛祈願」、また、〇から□へお参りするのを「無病息災・長寿祈願」のご利益としている。
2020年05月10日
目黒通り その四
2020年05月09日
目黒通り その三
前回の掲載、明治4年(1871)の吉田屋文三郎「東京大絵図」、これは江戸切絵図の流れを汲む最後のもので紹介したが、別の地図、安政3年(1856)時の江戸地図『復元・江戸情報地図』(朝日新聞)で見てみたい。
まず、目黒駅あたりである。
森伊豆守、播州三日月藩の辺りが目黒駅。ここから地図最後の瑞聖寺まで目黒通りが上図で描かれている。
瑞聖寺から清正公前交差点の覚林寺・清正公近辺の地図は以下である。
これでも覚林寺・清正公近辺がよくわからないので、絞って表示してみる。白金台町一丁目のところになる。
2020年05月08日
目黒通り その二
目黒通りの始まり地点は港区白金台の桜田通りの清正公前交差点。終点は世田谷区玉堤の多摩堤通りに至る延長10kmの都道である。
明治4年(1871)の吉田屋文三郎「東京大絵図」、これは江戸切絵図の流れを汲む最後のもの。
維新直後の東京は諸大名が国元に去り、旗本・御家人が離散し、武家に生計を依存していた町民層も困窮、火の消えたような状況だった。
江戸時代の最盛期には130万人に達していた人口は、明治4年には58万人弱に激減した。
この当時の切絵図だが、目黒通りの位置付けは明確に描かれている。
以下の地図は前回紹介した目黒駅あたりから、清正公前交差点の覚林寺・清正公近辺のもの。
当時はすぐ傍まで海が近くに迫っていた。
上図の森對馬屋敷辺りが現在の目黒駅近辺、そこから白金一丁目まで目黒通りを海方向に向かうと、覚林寺・清正公がある。この部分地図が以下で、白金一丁目から曲がる角が覚林寺である。
2020年05月07日
目黒通り その一
目黒駅近くの古地図を紹介する。この地図は尾張屋板江戸切絵図で嘉永7年(1854)に発行され、下の切絵図は安政4年(1857)に改版したものである。
安政4年といえば下田条約が結ばれた年で、5月26日に、アメリカ総領事ハリスが、日米修好通商条約の前段階として、下田にて締結した9か条の日米約定(日米追加条約)のことである。
権之助坂を上ったところが目黒駅。古地図でいうと森伊豆守、播州三日月藩(兵庫)一万五千石の家紋(以下)が印字されているすぐ上のあたり、行人坂を上ったところである。
2020年05月06日
目黒火薬製造所 その三
目黒区役所ホームページに「歴史を訪ねて」として2013年10月1日に掲載されている内容を続ける。
(再び移転)
もともと目黒には産業といえるほどのものはなかったが、それでも明治初期以来、灌漑(かんがい)用の三田用水を利用して精米・製粉をする水車は少なくなかった。水車の数は明治40年には、大崎、目黒を中心に49カ所に上る。日本麦酒や火薬製造所などの大工場も、動力源として、また、生産の過程で、大量の水を必要としたため、三田用水を利用できることを前提に、ここに設立されたわけで、目黒の工業の発展の歴史は、同時にまた、三田用水が農業用水から工業用水に変わってゆく過程でもあった。
そんななかで、火薬製造所と村民の間に、しきりに水争いがくり返されるようになる。三田用水組合文書には、明治24年、目黒村民がこぞって製造所の多量の用水使用を府知事に訴え出た記録が残っている。
しかし、昭和に入って、目黒に人家が増え、商店・工場も建てられると、火薬製造が危険ということで、昭和3年、幕営時代から70年余、三田にあった火薬製造所もついに群馬県岩鼻村へ移転することになる。目黒の工業化の元祖ともいうべき製造所が、他の工場などの進出によって追い出されたわけである。
火薬製造所跡地の大部分は、海軍技術研究所を経て、現在、防衛省防衛研究所となっている。
2020年05月05日
目黒火薬製造所 その二
目黒区役所ホームページに「歴史を訪ねて」として2013年10月1日に掲載された内容を続ける。
(明治期に発展)
明治維新後、新政府は、内乱の鎮圧と対外進出に備えて兵器・火器の補強を図るため、新たに火薬製造所の建設場所を捜していた。
そして、白羽の矢が立ったのが、旧幕営砲薬製造所跡の目黒の三田村である。三田村が2度も火薬製造所に選ばれたのは、目黒川・三田用水・豊富な湧水など水利に恵まれ、茶屋坂上の高台から目黒川にかけての傾斜地が、火薬生産に必要な鉄製水車を回すのに適していたからである。
明治12年、田畑をつぶして道路を開き、水路工事に反対する村民の抵抗をしりぞけて三田用水に玉川上水をひき入れ、翌年、東西1町16間、南北4町10間、面積2,000坪に及ぶ目黒火薬製造所が完成した。
ドイツ製の設備を導入し、ドイツ人を製造技師に迎えて、明治18年、いよいよ操業を開始。製造した火薬は、海軍や鉱山用に使われて、生産額もしだいに増加した。
明治26年、海軍省の管理から、陸軍の東京砲兵工廠こうしょうへ移管された。
日清戦争が始まると、軍用火薬の需要が増大したため、目黒火薬製造所は、隣接の土地を買収して建物10棟、機械30台を増設したが、終戦とともに需要が減り、拡張した設備や労働力の整理に苦しむことになる。
そんななかで、日露戦争が勃発。火薬製造は再びブームを迎え、夜を徹して増産につぐ増産が行われた。そして、終戦。目黒火薬製造所は、小銃・山砲・野砲用などの軍用火薬ばかりでなく、鉱山火薬・猟銃用火薬などを一手に引き受けて、独自に発展の道をたどる。
一万分一地形図東京近傍十三号(大正5年大日本帝国陸地測量部発行)
明治時代の二大戦争によって成長した目黒火薬製造所は、明治44年、それまでの水力および蒸気による動力を、渋谷発電所から供給される電力に切り換えるなどの近代化を行った。大正6年、職工数は男女合わせて367人を数えた。当時目黒で100人以上の規模を持つ工場は、日本麦酒のみであった。
2020年05月04日
目黒火薬製造所 その一
目黒火薬製造所については目黒区役所ホームページに「歴史を訪ねて」として2013年10月1日に掲載されている。
「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものである。
(江戸時代)
「同時二十六日昼、四半よつはん時頃、荏原郡目黒在三田村、合薬(鉄炮に用ふる所の品なり)の製所に、過って火を発す。其響四、五里に聞えたり。即死・怪瑕の者七十余人といふ」
江戸時代末に刊行された「武江年表」の、文久3年(1863)9月26日の項の一節である。
ペリーをはじめ諸外国船の来航、尊王攘夷勢力の過激な反幕運動など、幕末の深刻な政情不安は、江戸近郊の平和な農村だった目黒にも及んできた。幕府が三田村に建設した砲薬製造所の数回にわたる爆発の記録にも、その様子がうかがわれる。
(幕末に設立)
安政4年(1857)、幕府は、軍事上の必要から三田村の新富士辺より一軒茶屋上、広尾水車道までの約4万坪の地域に、それまで千駄ヶ谷にあった焔硝蔵えんしょうぐら(火薬庫)を移転し、さらに中目黒村内の三田用水より上目黒村・中目黒村・下目黒村の田んぼへの分水口下に、砲薬調合用の水車場を建てる計画を打ち出した。
もちろん、村民らは火薬の爆発を恐れたが、お上の言うことには逆らえない。しぶしぶ承知する代わりに、用水の分水口を村の決めた所に作ること、地代金を支払うことを幕府に認めさせた。こうして目黒砲薬製造所がつくられ、幕府の軍事力強化に一役買ったのである。
「武江年表」とは
『武江年表』(ぶこうねんぴょう)は、斎藤月岑が著した江戸・東京の地誌。「武江」とは「武蔵国江戸」の意。徳川家康が江戸城に入った天正18年(1590)から明治6年(1873)までの市井の出来事が編年体で纏められている。正編が嘉永3年(1850年)、続編が明治15年(1882年)に出版された。
火事・地震などの天災や気象情報、町の存廃、幕府の布告、著名人の死去、開帳などの催事や流行り物、その他の時勢が網羅され、江戸・東京の歴史を知る上で欠かせない史料である。
文久3年(1863)9月26日の「武江年表」記載内容
上京途中の島津久光の一行が豊後国鶴崎より海路兵庫に向かう。
天誅組の水郡英太郎が和歌山に到着し、倉ケ谷の牢獄に入る。
天誅組が遁走する。天誅組の中山忠光ら一行7人は、桜井から2Kmばかり東北の三輪山の麓に潜伏していた。
昼四半時頃、江戸荏原郡目黒在三田村合薬(鉄砲に使用)の製造所で誤って火を発する。その響き4、5里に聞こえる。即死、怪我人70余人と云われる。
新選組に潜入していた長州の間者御倉伊勢武、荒木田左馬之允、楠小十郎の3人は、新選組屯所の前川邸で斬殺され、越後三郎(松山良造)、松井龍三郎、松永主計の3人は脱走する。
オールコックが日本に帰任する際、ラッセル外相から与えられた一般的な訓令で下関遠征関連では
第6項
提督が海兵隊を上陸させて、我々の商船の通航を妨害する明白な目的をもって建設され、しかもなんらかな敵対的な行動によって、その敵対的な意図をあきらかにした砲台を破壊することが望ましいと考えた場合、提督は貴下の同意をえて、それを実施する権限を有すること。
第7項
しかし、その敵対的な意図が敵対的な性質をもつ行動によって明確にしめされないかぎり、貴下は砲台の破壊をくわだてるべきではなく、提督もそれを命ずる権限を有しないこと。
木村摂津守喜毅が、城中において、矢田堀が代理で、老中より「願之通御役御免の旨」正式に言い渡される。木村摂津守喜毅が軍艦奉行を退く。
2020年05月03日
東京都庭園美術館 その十 白金火薬庫
明治13年(1880)から昭和3年(1928)にかけて、目黒区三田には東京砲兵工廠所管の目黒火薬製造所という軍需工場があり、また、目黒火薬製造所から山手線の線路を挟んだ東側の白金台には、白金火薬庫という陸海軍の火薬倉庫があった。
東京砲兵工廠目黒火薬製造所は目黒の都市化とともに昭和3年(1928)、群馬県岩鼻村へと移転し、跡地には海軍技術研究所が入って艦の設計や技術開発などが行われるようになり、その流れで今は防衛省艦艇装備研究所となっている。
この地の主管が陸軍から海軍に変わる数年前の大正6年(1917)、火薬の運搬先であった白金火薬庫が陸軍省から宮内省へと委譲され白金御用地となり、白金火薬庫軍用線はその役目を終えたものと思われる。
火薬庫の残照が遺っていると言われている写真が以下で、茶屋坂児童公園の近くにあるという。
明治期から大正期にかけて、目黒は火薬製造の町だったとは!!
その白金火薬庫の一部に朝香宮邸があり、今は東京都庭園美術館になっているとは!!
以下は防衛 研究所戦史研究センター資料から引用したものである。
「東京砲兵工廠目黒火薬製造所」敷地図
現在の防衛研究所が所在する目黒地区は、明治 11 年に海軍の火薬製造所として建設が 進められて明治 18 年に完成したのち、明治 26 年に陸軍へ引き継がれて砲兵工廠所轄の目 黒火薬製造所となった。そして、軍用火薬や坑山用火薬の製造及び貯蔵を行い、明治 26 年度は 12 万kgでしかなかった火薬製造量は、順次、設備の拡充に努めた結果、明治 30 年度には 55 万kgに達した。 その後、大正 12 年に発生した関東大震災の影響で、設備は他へ移転して目黒火薬製造 所は廃止されることとなり、替わって海軍技術研究所が築地から移転した。 写真の敷地図は、明治 31 年頃に作成されたものであり、現在の学校地区はまだ用地買 収されていないことから、図には描かれていない。なお、防衛研究所が位置する部分には、 火薬製造所の本部事務所が建てられていたことがわかる。(「文庫-千代田史料-672」、防衛 研究所戦史研究センター史料室蔵)
2020年05月02日
東京都庭園美術館 その九 朝香宮鳩彦王(3)
『郷土随筆 目黒界隈』(富岡丘蔵著 とみおか・きゅうぞう 昭和36年 梢書房)がある。著者の富岡氏は目黒区史編集委員などを務めた方である。
ここに「白金迎賓館」について説明しているので紹介する。
≪自然教育園に隣りまして、白金迎賓館があります。これもやはり元白金火薬庫の一部で、皇室御料地となってから、朝香邸が造られ、それが戦後国有になり、首相公邸の一つになりました。吉田さんが総理の頃、盛んに目黒公館を使ったことを新聞が報じていましたが、いったいどこかと思ったのは、ここであったのです。今は政府の迎賓館になっています。広大にしてしかも静かな環境広々とした芝生の庭、首相官邸に似たりっぱな洋館、外交の派手な吉田さんが、好んで使用したのも無理はないと思います。
とにかく、国際的のもので、私どもにはちょっと近よりがたいところ、参観などは、もってのほかとあります≫
上の中で「元白金火薬庫の一部」と書かれているのは、明治八、九年頃から大正二年まで、陸軍の白金火薬庫として使われていたことを意味している。
2020年05月01日
東京都庭園美術館 その八 朝香宮鳩彦王(2)
朝香宮鳩彦王は明治20年(1887)、久邇宮朝彦親王の第8王子として生まれ、明治39年(1906)に朝香宮家を創設。「朝香」の名は明治天皇より賜ったもので、父・朝彦親王が伊勢神宮祭主を務めていたことにちなみ、伊勢国朝香山から採られた宮号である。明治43年(1910)に明治天皇皇女允子内親王と結婚する。
その後、大正11年(1922)にフランスに留学するが、翌年、義兄の北白川宮成久王の運転する自動車が交通事故を起こし、この事故で成久王は薨去。同乗していた鳩彦王は重傷を負う。怪我の療養のためフランス滞在が長引いたことで、フランス文化により長く触れることになった。特に、看病のため渡仏した宮妃とともに大正14年(1925)のパリ万国博覧会(アール・デコ博)を観覧し、同様式に対して強い関心と理解を示した。
後の昭和8年(1933)に完成した東京都港区芝白金台町の朝香宮邸(現・東京都庭園美術館)は日本の代表的なアール・デコ建築とされている。
下の写真は完成当時の朝香宮邸である。
昭和22年(1947)、GHQの命令により皇籍離脱。公職追放を受けた。また、朝香宮邸を外務省に有料で貸し出し、これは外務大臣公邸として一時期事実上の総理大臣公邸の役割を担っており、「目黒公邸」とも呼称された。
東京裁判や南京裁判などで、上海派遣軍司令官として南京事件で「捕虜の殺害命令」に関与した疑いでGHQから戦犯に指名される可能性があったが、皇族として戦犯指定は受けなかった。
熱海の別荘に居を移して株式投資などのほか、ゴルフ三昧の悠々自適な生活から「ゴルフの宮様」として知られた。数多くのゴルフクラブの会長・名誉会長を務めたが、その中で昭和5年(1930)に鳩彦王が名誉会長を務める「東京ゴルフ倶楽部」が埼玉県に移転した際、移転先の膝折村が朝香宮にちなんで昭和7年(1932)5月1日に朝霞町(現朝霞市、宮号をそのまま使うのは畏れ多いとして一字を替えた)と改称されている。