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2005年07月26日

9月にはイスラエルとパレスチナ問題を重信メイ氏から講演

例年のように、8月の例会はお休みとなります。

少し早いのですが、9月の予告をご案内いたします。
9月の経営ゼミナールは、9月26日(第四の月曜日)に開催いたします。
(6月の例会の会場では、9月20日(火)とご案内いたしましたが、会場の都合で26日に変更になりましたので、よろしくお願いいたします)
9月の経営ゼミナールでは、ジャーナリストの重信メイ氏をお招きいたします。
重信メイ氏は、日本赤軍のリーダー重信房子氏の娘さんで、2001年4月に来日し、大学や予備校などで中東紛争について講演を行うほか、日本語を学習しつつ、母親である重信房子氏の支援活動を続けています。

重信メイ氏は、日本人の母とパレスチナ人の父との間に生まれた女性です。母である重信房子氏は、1971年、パレスチナ解放のためにアラブに飛び、以降、西側諸国から国際指名手配されながら活動を続けてきました。その最中にお生まれになられたのがメイ氏であります。
重信房子氏と日本赤軍のメンバーは、アラブの地でお互いを助け合うために、家族のようなコミュニティーを作り上げていました。その中で生まれたメイ氏には国籍がありませんでした。
2001年3月、複雑な手続きを経て、日本の国籍を取得されました。
現在ジャーナリストとして活動する重信メイ氏は、中東の、パレスチナの問題が日本人の間で関心が薄いので、ご自分の役目が大切と考えられています。
今回、経営ゼミナールでは、日本人にとっては大変分かりにくいテーマである、イスラエルとパレスチナ問題について講演していただきます。
 
尚、講師のご都合により、通常の例会とは開始時間が異なりますので、ご了承の程お願い申し上げます。
6時半集合(お食事をご用意しています)
6時45分より山本紀久雄代表の時流講話
経営ゼミナ−ルは7時開始、8時50分終了予定

ご出席のご予定をお願いいたします。

投稿者 Master : 18:35 | コメント (0)

2005年07月21日

都市は養育するもの

   YAMAMOTO・レター 環境×文化×経済 山本紀久雄
      2005年7月20日 都市は養育するもの

国際かきフェスティバル

7月13日、14日の二日間、第一回国際かきフェスティバルが開催され、参加いたしました。会場はゆりかもめ国際展示場、東京ビックサイト会議室です。
世界のかき専門家の集まりで、講演発表は基本的に英語のため苦労しましたが、世界で始めてのかき研究者会議は満員盛況でした。
会議の合間や懇親会で名刺交換したのですが、ここでビックリしたことがありました。
それは名刺交換すると、相手の多くの方が「フランスを救った日本の牡蠣」の著者ですね、とこちらに確認します。中には、この本を持ってフランスまで調査に行ったオイスターバーのコンサルタントや、テレビ局の人からはこの本を部内で回覧して読んだ、というようなお礼とも報告ともいえる内容を聞くことができました。

当初は、フランスのかき事情、それを知ろうと調べ始めたのですが、日本には断片的なエッセー風なものしかないということが分かり、それならばかき全体を網羅し、関係する現場からの実態内容にしたいと、かき養殖場・販売チャネル・かき専門レストラン、それと一般人へのアンケート取材まで行って、2003年に出版したのが「フランスを救った日本の牡蠣」です。
今回、国際かきフェスティバルに出席することで、かきに関係する人たちにお役に立っているということが分かり、この本を書いたことの意義を改めて感じると共に、日本には、あるテーマで統一構成した資料が少ないという事実を再認識し、その統一したものの一つとして評価されているという事実、これに満足した第一回国際かきフェスティバルでした。

7月5日のレター

前回のレターについては、随分ご見解と感想をいただきました。熊野古道の石畳、トヨタと二宮尊徳との関係性、これらについてメールや電話、それと直接にお話をいただき、皆さんのご関心が高いテーマであったと改めて認識した次第です。
また、二宮尊徳に対するイメージが一般的に「徳の人」と受け取られているような雰囲気があるようでしたが、そうではなく「再建請負人」というのが実態だという説明を新鮮受けとめられたようです。
いつの時代でも再建が必要ですが、特に幕末という時期は、江戸幕府及び各藩の経済状態が最悪で、その解決のために尊徳が活躍し実績を残したのであって、ちょうど今の日本の政府と各県市町村財政悪化問題と通じるところがあるのです。
そのような財政悪化状態の中にあって、トヨタ自動車という一企業がますます隆盛し、世界中の国々から工場をつくって欲しいと要望される実態、それを尊徳の「仕法」という改革手段とトヨタの「カイゼン運動」と重ね合わせて解説いたしました。
尊徳の改革手段「仕法」については、山岡鉄舟を研究している過程で幕末の政治・経済状態の分析から当然に関心事として浮かび上がってきました。更に、トヨタについてもトヨタ出身者が多くの機関から引く手数多の状態であることから、トヨタの実態を時流として分析するのは当然です。ですから、前回のレターでも触れ、現在、各地でお話しているのですが、この見解については同様な方が多いようで、尊徳とトヨタを結びつけて論及する傾向が広まっています。両者に共通するのは昔から変わらない日本の良習慣といえるものを取り入れていることですが、これは熊野古道を世界遺産として遺してくれた先人の知恵にも共通しています。

都市を養育する

本には「まえがき」があり「あとがき」もあります。忙しい人は「まえがき」を読み、すべてを理解したように本を閉じます。もう少し余裕がある人は「あとがき」を読みますが、これで本の中味は終わったと、あとは書店の書棚に戻します。
これが一般の傾向と思いますし、自分もそうしているのですから多くの方も同様と思います。これだけ書籍が数多く出版されるのですら当然と思います。
ですから、本を書く立場としては「まえがき」に全精力を傾ける必要があります。「まえがき」の出来が悪いと「あとがき」にも行かずに、それでおしまいですので、「まえがき」は重要です。「まえがき」を的確に印象付ける内容にすることがすべてに優先します。
という考え方をもって8月末出版予定の「ぬりえ文化」の「まえがき」では、この本の「志」を強調しております。

最近読んだ「まえがき」で強烈な印象を受けたものに「持続可能な都市」(岩波書店)があります。この本では「まえがき」を「序章」に替えていますが、その出だし文章、
「和歌山市の歴史的ランドマークとなっている紀州和歌山城は、緑豊かな虎伏山に建つ。天守閣にのぼると、眼下に紀の川がゆったりと流れ、紀州海峡に注ぐ風景を眺めることができる。和歌山城は秀吉が弟の秀長に築城を命じたことにはじまり、その後、紀州徳川家55万5000石の城となった。・・・・・ところがその和歌山城に隣接した場所で、和歌山城の景観を台無しにしかねない大規模都市再開発プロジェクトが2005年春、終わった」に目が釘づけになりました。
またもや日本の景観が壊されたという残念さと、それを鋭く明確に指摘する論客がいるという事実、その両方から、本としては高い3400円をレジに持っていったのです。
和歌山城の天守閣の高さは67メートル、都市再開発プロジェクトのホテル建物は80メートル、ホテルが城よりも10メートル以上も高い。
この都市再開発プロジェクトは和歌山県が率先して再開発に奔走し、デベロッパーが計画を立案したのですが、この立案基本コンセプトは「和歌山城に相対する、都市の新たなシンボルを建設することによって、過去と現在の二つのランドマークからなる古都和歌山にふさわしい美しい都市景観を創出します」としたのです。
しかし「和歌山城は和歌山市の歴史的シンボルである。公共空間の最上位に位置することが望まれる和歌山城を見下ろす位置に、城とツインをなすどのような優雅なランドマークタワーホテルの建設が可能だというのだろうか」と指摘し「都市空間の占有、特に建築物の高さ制限に関しては、それぞれの社会の構成員が不文律の約束事として遵守してきた」ものがあると続けます。
加えて、「都市は養育する」のであり、その基本原則は「ゆるやかで自然な、過激でない変化、ほんとうの社会的、経済的要求にこたえるような変化である」とし、和歌山市のランドマークタワーホテル計画は「都市は養育する」精神を踏み外していると、鋭く厳しく痛烈に批判しています。
更に、「都市空間とは『精神的ルーツ』や『過去とのきずな』につながる建物、あるいは聖地・聖域、政治的空間の重要性に従って序列化しながら形成されることが重要である」ので「和歌山城を足下に見下ろす超高層ホテルの建設は、明らかにこの原則にも違反している」と結論づけしています。その通りと本当に思いますし、その実例を愛宕山から見た江戸景観と、現代の東京景観によっても強く感じます。

ベアトのパノラマ写真

手許に幕末の慶応元年(1865)から2年(1866)頃に、イギリス人写真家「フェリックス・ベアト」が愛宕山から撮影した江戸景観写真コピーがあります。恵比寿ガーデンプレイスの東京都写真美術館でコピーしてきたものです。当時世界一の人口100万人を誇った江戸、ベアト写真でみる大都市江戸は整然と落ち着いて上品な景観で、140年後の東京を、ベアトが撮ったと同じアングルから撮影し比較してみますと、つくづく貧しさと哀れさを東京景観に感じます。
近代化という日本人が走ってきた過去の実態、それは、日本人がつくりあげてきた素晴らしい景観をなくす行動だったと思わざるを得ません。都市空間の魅力を失わせること、それが、経済成長という意味であったのかと思い、悲しい思いになります。

国際かきフェスティバルの懇親会は台場の日航ホテルでした。宴会場からみる夜景は、日本開国の歴史を証明する台場と、その向こうに広がるレインボウブリッジと林立する高層ビルの明かりです。それは無秩序に乱立して結果的に輝いているのであって、日本が持ちつづけた良習慣としての「精神的ルーツ」や「過去とのきずな」とつながっているとはとうてい思えず、和歌山市の事例や愛宕山からみた東京と同じでした。「都市を養育する」という精神を大事に復活させること、それが日本の大きな課題であると思いました。以上。

投稿者 Master : 16:01 | コメント (0)

2005年07月05日

熊野と尊徳とトヨタ

YAMAMOTO・レター  環境×文化×経済 山本紀久雄
       2005年7月5日 熊野と尊徳とトヨタ


   

熊野古道
紀伊半島南東部の熊野地域。連なる山々と深い森。ここが昨年7月世界遺産「紀伊山地と霊場と参詣道」に認定されましたので、梅雨時期の晴れ間の数日、この熊野古道を歩いてまいりました。今は車という便利な交通手段がありますが、中世、ここが日本最大の霊場であった時代は、困難な道筋でありながらも、熊野詣は「蟻の熊野詣」と表されるほど多くの人々をこの地に向かわせ、様々な人々が、様々な思いを抱いて、様々な願いを込めて、途中で行き倒れになる危険を承知で歩いたのです。祈りの道、蘇りの道、それが熊野古道です。また、この道は辺境の山岳地帯にあるため、道案内が必要であったことから、その道案内を修験者がつとめ、この道案内の人を先達(せんだつ)と呼称しました。
   

今回の熊野古道歩きでも先達をお願いしましたが、今では様々な職業の方が先達をつとめています。今回お願いした先達は熊野古道の宿泊施設のご主人でして、苔むし、木の根が張り出した、昼なお暗い杉林の険しく狭く、いまだ鶯が鳴いている祈りの道、その古道を一緒に歩きながら道の成り立ちについて説明してくれましたが、その中でも「石畳」については成る程と思いました。
道に石畳を敷くことは、この地が多雨地帯であることから、豪雨によって土砂が流され、道が壊されるのを防ぐためであり、また、温暖な気候からすぐに草が茂ってしまい道としての機能を果たさなくなる可能性があるからだ、という先達の説明に納得しました。
つまり、この道が日本人の心を癒す道として役立ち、整備し残していくためには、石を使って人々の歩きを安全にしたいという、古人の創意工夫がつくりだした知恵によって石畳が存在しているのです。このような隠し味ともいうべき古人の多くの知恵が、熊野古道を世界文化遺産にしたこと、それを再認識させてくれた熊野古道歩きでした。

二宮尊徳
二宮尊徳という先人も我々に多くの教えをもたらしています。二宮尊徳は黒船が来て国内の物情騒然たる安政三年(1856)に亡くなくなりましたが、死後149年、今なおその業績を語られること多き人物です。一時は小中学校の校庭に必ず「薪を背負って本を読む二宮尊徳銅像」がある程でした。
尊徳は、幕末時の疲弊した封建農村社会にあって、郷里小田原藩栢山にはじまり、栃木の桜町の三カ村を復興させ、天明の再度にわたる大飢饉を楽々と乗り切る農村に変身させる業績を残し、さらに、奥州相馬十万石、人口10万人の藩を生食溢れる領地に変貌させたのです。これをみた幕府は「日光御神領」改革を尊徳に指示依頼したのです。しかし、すでに病に冒されていた尊徳は改革途中68歳で倒れたですが、今の時代でいえば県市町村行政財政健全化の再建請負人ともいうべき人物でした。

尊徳の改革方法は「仕法」であり、その原点は「分度」の確立でした。
「分度」とは一家の分度、一村の分度、一藩の分度、全国の分度を確立することです。つまり、収入と支出を確然たらしめた予算を確立することでした。
しかし、分度の目的は、入るを量って出を制するという緊縮政策でなく、入るものを出来るだけ多くし、それを社会生活の根源である土地と農民に投入することによって、土地と農民を豊かにすること、それを分度の目的においたことが成功の秘訣でした。
つまり、生産された財貨を、できるだけ消費生活で消費させずに、生産の場へ積極的に再投入し、これによって拡大再生産を封建社会の枠の中で実現させる、という方法が分度であり、その一連の改革方法を仕法と表したのです。
分度を原点とした仕法の第一は、まず該当地を徹底的に統計データで調べることでした。データが無きために尊徳から断られる町村も多々あった程です。第二は、学問だけに頼らず、自然に対する実体験知識の活用を主体とし、第三は尊徳が保有した優れた土木技術力と土地開発力であり、第四は複雑な損益計算と複利計算の手法を取り入れて、元利償還計画をつくり上げる計算力でした。特に第五としてあげられるのは、種金または仕法金、報徳金ともいう最初に必要で投入される元金、それを無利息で貸付できる財力が尊徳にあったことです。それは無類の勤勉家で、天才的な利殖家でもあった尊徳しかでき得ないことであったのですが、尊徳の仕法を受けようとするもの達は、無利息のお金を貸してくれる奇特な人がいるという噂を聞きつけ、それを目当てに尊徳の仕法を受けたいと交渉がはじまり、その交渉過程で仕法という改革方法を理解することにつながっていったのです。

この「仕法」とは、領主の財政再建の当然の方策でもありました。ある期間を区切って領主の分度を設定し、土地の収穫から領主に取り上げられる量を、いわば「括弧」の中に入れてしまうのですから、領主はその期間収入は増えず、一定の分度という予算の範囲で経営していかねばならないのです。ということは、仕法によって増収が図られたとしても、その増収分を土地の拡大再生産に再投入し、そのことに全力を集中できるような仕組み、それをまず固めていくことになります。
次に、農民に対しては、かっては耕地であったが、農村の衰亡により荒地化した土地を元に戻すという作業に取り掛からせます。また、その作業を農民一人ひとりの努力だけによって問題が解決できるという理解をさせること、つまり、本来の荒地を開墾するほど困難でないという「易き」から着手し、本来目的の「難事」へと進むという理解をさせて、その「易き」に全力を結集させる仕組みとしているのです。
これは、考えてみれば、生産する原場人間のやる気を起こすという人間心理をついた巧妙な方法ですが、それと共に一方の為政者には、一定の予算範囲内で経営するという自律を求めているのですから、現在の国県市町村が見習うべき当然の改革方法であったのです。
改革として、まず人のやる気を引き出し、その上で為政者に自律を求める、それを実践的に展開したところに二宮尊徳の偉大さの根源があります。

トヨタ自動車
6月末は株主総会のシーズンでした。いくつかの総会に出席してみましたが、各企業ごとの社風によって運営方法が異なり、それなりに面白い体験をしましたが、変わらないのは企業は社長が運営するものである、という事実です。社長によって企業は良くも悪くも、成長もするし、停滞もするのです。
世界のトヨタ自動車も社長が変わりました。その渡辺新社長へのインタビューが日経新聞に掲載され(2005.7.2)、その中で次のように述べています。
「開発や調達、生産、販売など各部門が抱えている兆候を『見える化』し、何が足りず何を補強すべきなのか明確にする」
この中の「見える化」発言に、トヨタは社長以下一つの仕組みでつながっていると思いました。なぜなら、社長の口から「見える化」という具体的なカイゼン手段方式が自然に表現されているからです。
トヨタのカイゼン運動は世界中で有名になりました。カイゼンという日本語がそのまま通用する言葉になっているほどです。カイゼンについては、トヨタの関係者の何人からお話しを伺ったこともあり、実際にトヨタに見学に行ったこともありますので、以下に少し補足してみます。
● トヨタは当たり前のことを根気よくする集団だ。
● 何に対しても疑問を持つことからはじめ、このために何故を五回繰り返す。
● 現状をそのままルール化し、次にそのルールを直すことからはじめる。
● 改善は小さな積み重ねだ。
● 全ての答えは現場にある。現地、現物、現実、現認。
トヨタの宣伝係ではありませんが、このような内容は世間に流布されていますし、その内容は別に事新しいものではありません。特に秘訣があるわけでなさそうです。渡辺新社長の「見える化」発言も、問題点を明らかにすることですから、経営者にとって当たり前のことです。これが世界一のトヨタ自動車経営のすすめ方なのです。

昔も今も変わらないセオリー
熊野古道を世界遺産にしたのは、古道石畳を整備した古人の気持ちが原点にあったからです。二宮尊徳が財政改革として行ったことは事新しい方法ではなく、農業生産現場の人たちのやる気を引き出す仕組つくりでした。トヨタの経営も新しいことではなく、当たり前のことを熱心にあきらめずに継続追求した結果、それが世界一にしたと思います。

投稿者 Master : 17:25 | コメント (0)