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2005年09月06日

近代戦のあり方

     YAMAMOTO・レター 環境×文化×経済 山本紀久雄
          2005年9月5日 近代戦のあり方

国会解散   

国会図書館に行くたびに、国会議事堂の前を通ります。今年の夏は小中学生がたくさん並んでいました。国会議事堂の見学に来ているのです。何のために国会見学に来るのか。それは子どもたちの間に、今回の解散・選挙が関心もたれているからです。
その解散について大人たちの間で見解が分かれます。参議院で否決されたのに、何故に衆議院が解散するのか。筋が異なる。小泉首相の暴挙だ。また、森前総理の「衆議院で郵政民営化に努力してくれた人たちを路頭に迷わせてよいのか」発言は、政治家を失業させるのは困るから解散させたくない、という稚拙な小泉首相への口説もありました。
一方、解散によって国民の前に問題を明らかにし、差し出し、真の決定権者に決定させるということは、日本の民主主義を確実に進化させることにつながる、という見解もあります。いずれにしても小泉首相権限で衆議院が解散し、9月11日に総選挙が行われます。

選挙結果予測

選挙の一週間前になってくると、各新聞が選挙結果の予測記事を掲載し始めます。4日の日経新聞は「与党安定多数の勢い」と全国世論調査の結果を一面に発表しました。5日の読売新聞も同じく全国世論調査の結果で「自公過半数超す勢い」と掲載、同日の共同通信も「与党優勢」と報道しております。政治評論家の三宅久之氏に直接伺いましたが「今の情勢ではよほどのことがない限り自民党が圧勝」という見解です。
しかし、経済評論家として著名な藤原直哉氏の発行するワールドレポート(2005年8月31日)では、以下の内容が指摘されています。
1. フランスのルモンド紙は自民党苦戦
2. イギリスのフィナンシャルタイムス紙は自公過半数割れ
3. 高知新聞の独自の世論調査で小泉支持が41%、不支持が48%という結果で、東京の大新聞とは異なり、地方はアンチ小泉
4. 経団連が自民党支持を打ち出しているが、これは大企業が小泉政権と海外勢力とつながって、国内で弱肉強食政治を推進する証左である
5. 結論として与党は過半数取れずに小泉政権退陣、同時に民主党も過半数を取れない
6. その結果、自民党は小泉政権の退陣と同時に党が瓦解するのではないか
つまり、総選挙一週間前の全国世論調査で示した大新聞の予測と、著名な論客である藤原直哉氏の見解は真っ向から対立しています。
どちらが当たるのか、それは11日の夜に分かりますが、今から事前に皆さんも自らの見込みで予測しておくこと、それが今回著名人の出馬や新党結成が出た「劇場型」といわれる衆議院へ関心を高めることになるのではないでしょうか。とにかく、小中学生にも高い関心がある今回の選挙ですから、自らの事前見解と、結果との分析は必要と思います。

近代戦のあり方

白川静氏は字統・字訓・字通の3部作で知られています。その白川静氏が次のように述べました。(「日本の進む道」2005年8月19日日経)
「日本の近代化は明治時代に開花し、大正期になってようやく世界に目が開くようになりました。大正デモクラシーに代表されるように、それは成長しつつあったが、軍部の台頭によって未成熟なままに終わってしまいました。台頭を許した裏には農村の疲弊、国全体の貧困があった。要するに日本は近代社会になりそこねたのです。『戦争』と言わず、『事変』と称して宣戦布告もせずに既成事実を重ねる。政治の前面に出てくるのは『近代戦のあり方』も知らない軍人ばかり。日本人は人材が不足していたのです」
なるほどと思いますが、ここで指摘していることは明治時代に日本の近代化が開花したということです。では、どうして明治時代に開花したのでしょうか。明治時代に開花するには、その前の時代に何かの要因がなければなりません。それは江戸時代です。
江戸末期に日本の近代化を開花させる最大要因はペリーの来航でした。嘉永6年(1853)7月8日、アメリカ・ペリー艦隊は4隻で浦賀の沖合いに停泊。だが、これはオランダを通じて一年前に幕府に伝わっていましたので、幕府はペリー一行が来た場合の予行演習も行って準備していました。その予行演習内容は『日本は人口3000万人で需給のバランスが国内だけで十分とれているので、外国と貿易する必要がない。長い航海生活で不足する生鮮野菜や水・薪などは提供する』。つまり、今まで通りという交渉方針でしたが、これは世界という視点から来航したアメリカには、とうてい理解できない理由でした。
当時、日本近海では、乱獲ともいえるほどの捕鯨活動が行われていました。鯨油は欧米の必需品で、それは灯りとして、石鹸をつくものとして、印刷機の潤滑油として、鉄鋼の高炉釜入れ用として、多くの使用価値がありましたので、鯨を追って日本近海にまではるばる航海してきたのです。それらを理解できない日本人を、かえって欧米人は不思議がって、通訳だったヒュースケンは次のように述べています。「日本近海にたくさんの外国船が国旗を翻し鯨をとりにきている。なぜ、勇気もあり、活動力にも欠けていない日本人が、同じように遠く外国の岸まで船を送り、自国の旗を進めようとしないのか」(ヒュースケン日本日記)つまり、日本も世界貿易体制に入って活躍すればよいのではないか、という世界常識からの見解、これは現在、日本が世界貿易で成り立っている実態で分かりますが、ペリー来航はその事実を暗示し、近代戦のあり方を教えようとしていたのです。

鳥羽伏見の戦い

慶応4年(1868)1月3日、京都の南郊、鳥羽・伏見で幕府軍と薩長中心軍とが戦い、幕府軍が敗れて将軍慶喜は江戸城に逃げ帰りました。これが明治維新・戊辰戦争の始まりです。鳥羽・伏見の戦いでは幕府軍は圧倒的な軍勢で陣地を構築していました。対する薩長軍は人数少なく、当初、必勝の算はなかったのですが、結果的に幕府軍の大敗となって、一気に情勢が変わったのです。この勝敗の帰趨について様々な分析がなされていますが、最も大きな要因は「時代との接点体験」をしていたかどうか、これで決まったのです。というのも、薩長はいずれも当時の欧米先進強国と戦争したという体験を持っていました。薩摩は文久3年(1863)の薩英戦争で、当時世界最強のイギリス艦隊と戦い、長州は元治元年(1864)に下関を英米仏蘭四国艦隊によって攻撃を受け完敗し、いずれも欧米科学力のすごさを熟知して、その体験から軍の近代化を図ってきたのでした。
ところが、幕府側の欧米に対する理解は、外交交渉のみからでしたので、頭では分かっても実態はついていかず、薩長の犠牲を払った実践経験とは格段の差があったのです。
ですから、鳥羽・伏見の戦いに出陣した幕府軍の諸藩軍の中には、戦国時代の感覚で参戦した藩も多く、「近代戦のあり方」を知らずに戦ったのです。いくら軍勢が多数でも、薩長の欧米先進国との戦争によって体験し、軍備強化した軍隊と、そうではない幕府軍とでは勝敗は当初から明らかでした。時代との接点体験の有無が大きな差でした。

アハ!体験

ニュートンが、リンゴが木から落ちるのを見て万有引力の法則を発見したエピソードはあまりにも有名ですが、このような天才達のひらめきが人類の歴史を創ってきました。英語では「ああ、そうか!」と気づいたときのひらめき感覚を「アハ!」という言葉で表し、この「アハ!」と気づくと、神経細胞の間の結合が強められ、一瞬にして脳の学習が完結するのだと、脳科学者の茂木健一郎氏が解説しています。(2005年8月25日日経)
明治維新の成立には、もう一つ薩長側に大きな課題が横たわっていました。それは京都に居住する公卿たちの保守性です。公卿衆は武家政治が始まって以来、700年もの間、政治の実務から遠ざかって、日頃は風流韻事と学問だけであったので、保守の殻に閉じこもったその感覚を、時代の厳しい現実に変化させねばならなかったのです。
この改革を行うに当たって、中心となった薩摩の西郷も大久保も非常に苦労したのですが、何とか結果的に公卿衆に「世界の情勢と、その中にいる日本の境遇情勢」について「アハ!体験」させる攻め方をしたことが、明治維新成功のもう一つの要因でした。

時代には完成形はない

知に完成形がなく、何が正しいかどうかも分からないことが多い。同様に時代にも完成形はなく、時代がどの方向に向かうのが正しく妥当なのか実は分からない。しかし、過去を創り変え再生していかないと、制度も組織もしがらみで腐っていく。白川静氏が指摘する「近代戦のあり方」が、国民の民意として9月11日にどう表れるのでしょうか。以上。

投稿者 Master : 2005年09月06日 11:00

コメント

戦後の自民党政治は長すぎた。利権を持つものとそうでない者が与野党に分かれているだけ。所詮自分のために国会議員になっている。このような体質(国民の体質かもしれない)を自民党組織が作ってしまった。
命を懸けて、国を憂う政治家がいなくなった。憂うべき現実を私を含めて立て直すすべを持たない。
今回の選挙は、20歳代、30歳代の若者はこれまでの政治を嫌い、頼りにならないけれども新しいものにやらせてみることを選択するために大挙して投票所に押し寄せるかもしれない。インターネットの怖さを知る選挙になるかもしれない。

投稿者 OOYOSI : 2005年09月06日 11:55