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2013年12月21日

2013年12月20日 ウラジオストク視察旅行会に参加して・・・その二

YAMAMOTOレター
環境×文化×経済 山本紀久雄
2013年12月20日 ウラジオストク視察旅行会に参加して・・・その二

1.ウラジオストク三つの見所

ウラジオストクは坂の多い街だ。 起伏の多い街のあちこちから海を望むことができ、街の中心部には19世紀末から20世紀初頭にかけて外国商人によって建設されたアールデコ調の洋館が多く残され、ヨーロッパの雰囲気を持っている。
街の散策はウラジオストク駅前広場からメインストリートのスヴェトランスカヤ通りを歩き、アルセーニエフ博物館、要塞博物館、 潜水艦C-56博物館、ニコライ二世凱旋門などが主な見所だとガイドブックにあるが、今回はバスで回ったので、筆者の見所はガイドブックと異なる。
我々のバスは、APEC開催を機会にインフラ整備が進んだ高速道路を走り、ルースキー島と結ぶ自慢の2本の橋を通り過ぎる。

1本目の金角湾大橋は海に面してコの字型に広がるウラジオストク市の内湾を、街の上にのしかかるように跨いで架けられたGolden Horn Bridge。2本目の東ボスポラス海峡大橋は2本の主塔から張ったケーブルで橋桁を支えるユニークな斜張橋で、世界最長の斜張橋といわれている。
ゴールデン橋.JPG
橋.JPG

だが、日本人として関心を呼ぶ見所は、この自慢の橋ではなく、以下の三か所と感じるので紹介したい。

① ウラジオストク駅
駅 (2).JPG


日本人の心を打つ最初の見所は、シベリア鉄道の始発駅だろう。先の大戦でシベリアに抑留された日本兵士達が鉄道やビル建設に動員された。我々の先輩たちの汗と涙で造られたのであり考え深い。
駅はウラジオストクの街の中心に位置し、ネオロシア建築がすばらしい建物で、駅の向こうには社会主義革命を導いたレーニン像が建っている。
  モスクワまで.JPG
キロポスト (2).JPG

駅の中に入ると、天井画がすばらしく、大きな荷物を持った乗客が列車を待っている。ここからモスクワまでつながっていて、ホームの中央には「モスクワより9288㎞」と刻まれた石造りのキロポストが立っていて、ロシアの象徴である双頭の鷲が付いていて「まさにロシアに来た!という感じがする。

②  与謝野晶子の記念碑
次の見所は、極東総合大学東洋大学の入り口にある与謝野晶子記念碑だろう。
1912年(明治45年)5月、与謝野晶子が夫鉄幹を追ってパリに向った。500人もの友人達に新橋駅で見送られて東海道経由で敦賀に向かい、敦賀からロシア船でウラジオストクに渡り、シベリア鉄道に乗ってパリへ向かった。4ヶ月の欧州滞在の後、晶子はマルセイユから船で40日をかけて帰国したが、その与謝野晶子記念碑がウラジオストクにある。
与謝野晶子 (2).JPG

この碑の前で、晶子が詠った激しい恋心に驚く人は多いが、実は、この碑にウラジオストクの現実が遺されていることを知る人は少ない。
それは、この晶子の日本語原文と解説が刻まれた二枚の銅版が盗まれていたことだ。1998年9月のことである。
この事実は何を意味するか。当時のロシア経済は厳しく、貧しい人は金になるものなら何でも得ようとしたわけで、無防備な石に貼られた銅は、格好の獲物であったことを示した事件で、また、この当時は下水道マンホールのふたも盗まれているように、ウラジオストクは問題多き街であった。
 現在の晶子記念碑は2004年8月に修復されたものである。手がけたのは山梨学院大の我部政男教授。今度は盗まれないように、詩の原文などは碑に直接刻み、複製した銅板は極東大学の施設で保存してあるが、ここにウラジオストクの治安状態が現れている。
ウラジオストクの治安について、在住日本人がいろいろブログで述べている。一例を紹介する。

A 夜暗くなっての帰宅で、自宅の玄関先で殴られる⇒暗くなくても自宅の鍵を開けるときは、周りに要注意。
B 中央郵便局前のキオスクで買い物をした時から後をつけられる。
C 一時帰国中にアパートの電気製品などがごっそり盗まれた⇒玄関のドアは2重(1枚は鉄製のドア)になっていても、窓際の木をよじ登って窓から進入する。留守だということが知られると、狙われる。
ブログでの警戒警報はまだたくさんあるので、これから訪れる方は参考にされることをお勧めする。
 
③ 溢れる日本車
駐車場の車は日本製 (2).JPG
もうひとつの見所は「溢れる日本車」である。走っている車と駐車場の車の8割が日本車ということだが、そのほとんどは日本海側の港湾から積み出された中古車である。
複雑なのは、日本のメーカー企業が正規のルートを確立しているわけではなく、主としてパキスタン系の企業が日本国内の中古車を確保し、極東ロシアの受け皿企業を介して輸出しているという変則ビジネスモデルが肥大化したのである。
日本車の性能に対する極東ロシア市場の評価は極めて高く、特に厳寒の冬季に対応できる4WD型のランドクルーザーやプラドなどの車種への需要は強いという。一時、韓国車が攻勢をかけたこともあったが、市場の評価が日本車の優勢を決定づけた。
バスの中でガイドが補足する。市内を走る車の98%は日本車である。また、日本製そのままで右ハンドルのままの状態も多い。
いわれてウオッチングするとその通りで、メーカー別ではトヨタが多いが、ここでガイドが強調する。
それは、ソニーがサムソンに負けた要因についてである。
「日本車は、日本国内製と、サウジアラビア製では、明らかに性能が異なることをロシア人はよく知っている。ここが日本企業の問題点だ。サムスンはどこの国でも性能基準は同じだ。それがソニーの負けた理由。日本企業は日本人のためにつくる。サムソンは世界の人のためにつくる」
このガイドの指摘は鋭い。日本国内では聞けない貴重な見解と思う。


投稿者 Master : 2013年12月21日 11:41

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