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2013年05月25日

2013年5月5日 村上春樹の正体(上)

YAMAMOTO・レター
環境×文化×経済 山本紀久雄
2013年5月5日 村上春樹の正体(上)

村上春樹新作の評判

 村上春樹の新作長編小説「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の発行部数が4月18日に100万部に達したという。12日発売であるから一週間も経たない。すごい売れ行きである。
発売当日夕方、渋谷で最初の書店に行くと「売れ切れです」。次にヒカリエ斜め向かいの大型書店に入ると、まだ少し残っていたのでホッと買う。



新作に出てくる音楽も人気に

 新作では「巡礼の年」の中の「ル・マル・デュ・ペイ」という曲が繰り返し登場する。主人公・多崎つくるは高校時代、五人組のグループの一員で、そのうち一人の女性「シロ」がよく弾いた曲である。
 「ル・マル・デュ・ペイ」はフランス語で、作中では「田園が人の心に呼び起こす理由のない哀しみ」を意味すると表現され、主人公が深い「哀しみ」を癒す「巡礼」の旅に出ることを暗示する曲として選ばれているが、このCDも異例の売れ行きである。

何故村上作品は売れるのだろうか?

新作を、早速読んでみる。いつものように村上作品は読み手を惹き込む。だが、一気に読むと「棒読み」になるので、敢えてジックリ「辿り読み」にしようと、途中でやめて考える。

村上作品は「面白い」「エンターティメント性」「わくわく感」という分野の小説ではない。読み手によっては「難しい」「心理描写が長すぎる」「ストーリー時間軸が行ったり来たりで分かりにくい」という評価を受けるかもしれない。

だが、世界中から受け入れられていることはご承知のとおりで、文字通り発売日に飛ぶように売れた。何故か?

世界での評価

村上春樹は世界中、どの国に行っても知られているし、各国語に翻訳されて書店に並んでいる。実際に村上ファンという人物に何人にも会っている。

その一人、イタリア・プーリア州フォッジャ県マンフレドニア市、南イタリアの地方都市で人口は約6万人の町、ここで会った39歳のフィレンツェ大学出身で水中生物の繁殖技術コンサルタント、彼が語る村上春樹論は面白かった。2010年のことである。

殆ど掃除しない汚すぎるマツダ車を運転しながら、村上小説は、ノルウェーの森を友人からもらって読んでハマったのだと語りだす。料理の場面が多いのも関心あった。イタリア語で「素晴らしい国の終わり」というのが大好きで、カフカの海辺も読んだ。

一般に西洋の作家は売るために書いているが、村上は日本ならではというものを書いていて、どこの国でも起きていることではなく、日本のことを書いているので外国人にとって学ぶこと多いという。

彼のこの評価は、他国で聞く村上作品の評価と少し異なる。他国では村上小説が場面は日本で、日本人だけが登場するのに、外国に住む自分の身近なところを描き、自分のことを書いているのではないかと思い、その点から村上作品を受け入れている、というのが多い。だが、彼は視点を違えてはいるが、村上を高く評価している。

ところで、イタリアでは四種類のノルウェーの森が出版されていてそれぞれ中身が異なるという。日本語から英語に訳し、それからイタリア語に翻訳する場合と、日本語から直接イタリア語に訳した場合でニュアンスが異なるのと、訳者が違うと本の中身が異なるという意味である。日本でも同様な事があるのだろうと思うが、マンフレドニア市の彼の話は強く記憶に残っている。

司馬遼太郎との違い

 日本人で司馬遼太郎を知らない人はいなく、殆どの人たちは司馬の本を一冊は読んでいるだろうし、司馬が語る日本歴史観に納得している場合が多い。

 だが、日本でこれほど有名な司馬も、外国では無名である。知人で仏ジャーナリストのリオネル・クローゾン氏、彼と昨年夏、播磨灘を旅して、兵庫県赤穂市坂越にある大避神社を訪れ「ここは司馬遼太郎が書いた『兜率天(そとつてん)の巡礼』の舞台の神社だ」と伝えると、司馬とは何者か、という疑問を呈された。という意味は司馬を仏ジャーナリストは知らないのだ。さらに、今年3月、和紙の本を書くために来日し、各地を案内した米作家マーク・カーランスキー氏、米国では知られた作家であり、ニューヨーク・タイムズ寄稿記者であるが、マーク氏も司馬について知らないという。

 司馬について、同様な質問を多くの外国人に尋ねればすぐ分かるが、日本では超有名で、外国では全く無名というのが実態である。

司馬と村上との違いは世界の普遍性

 司馬が世界で知られていない理由を分析すればいくつも挙げられるだろうが、一番の背景は日本歴史上の人物をテーマにしていることだろう。

 日本では最も著名な坂本龍馬であっても、世界では無名であるから、いくら司馬が坂本龍馬をロマン人物として描いても、それを翻訳しようとする外国人はいない。

したがって、司馬の著書は翻訳されていないのだから、外国人は司馬のことを知らないのが当たり前であるが、村上本は世界中の言語に翻訳されているので、十分に知られているし、今やノーベル賞受賞の最有力候補者であるという意味は、世界の普遍性をもっていることになる。そのことを語る二氏を紹介したい。

●四方田犬彦氏(「世界は村上春樹をどう読むか」文春文庫)
「村上春樹の読者は伝統的と考えている日本文学や日本のイメージとは関係なく、単に一人の作家を体験しそれに満足しているのです。つまり、彼の『無臭性』が現代のグローバリズムにおいて、世界の人々に大きくアピールしたという事実があるわけです。

谷崎や三島、川端はある意味では意図的にそういった日本の匂い・香りというものを演出して、『美しい日本の私』として国際舞台に出ていったと言えます。逆に、春樹はそういう日本の伝統的なものへのまったくの無関心から出発して、そして世界に受け入れられていったわけです」

 ●元ハーバート大教授で翻訳家のジェイ・ルービン氏(文芸春秋2010年5月号)
「非常に多くの作家が日本人としてのアイデンティティを追及しているが、村上にとってそういうことは文学の中心になっていない。村上は『あなたが今持っている物語は本当にあなたの物語なのだろうか? それはいつかとんでもない悪夢に転換していくかもしれない誰か別の人間の夢ではないか?』(アンダーグラウンド)と語っているが、これが世界文学として普遍性の底流にあるものかもしれない」

 この二人の見解、いずれも村上の作品は世界から受け入れられる普遍性があると判断している。

日本を舞台に、日本人のみが登場するのに、世界中の人たちが「自分のことではないか」と考えさせられるもの、言葉を変えれば、世界中の人たちが持ちつつ、実は、それが自分の内部に隠され、表に現れてこない何かを探るためのヒントが村上の中にある。

ところが、一般的に人は意外に自分を知らないし、知る努力をしていないが、村上を読むとそのこと、つまり「生きるための解答のあり方が物語的に示唆されている」と察知し感知するから世界中で読まれているのではないか。村上の正体解明は次号で。以上。

投稿者 Master : 2013年05月25日 11:38

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