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2013年05月25日

2013年5月20日 村上春樹の正体(下)

YAMAMOTO・レター
環境×文化×経済 山本紀久雄
2013年5月20日 村上春樹の正体(下)

村上の新作も自分探しの旅がストーリー

 村上春樹の新作長編小説「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」をここで解説することは簡単にはできない。
だが、主人公は「『大事なもの』を守るため、つらい過去の真相を知る旅に出る」、つまり、自分探しの旅にでるストーリーで小説が展開されていく。

また、日経新聞「春秋」(2013.4.13)は
「人間は生涯に何かひとつ大事なものを探し求めるが、見つけられる人は少ない。もし見つかったとしても致命的に損なわれている。にもかかわらず我々は探し続けなくてはならない。そうしなければ、生きていく意味がなくなるから」と述べている。

村上作品の特徴は、この探し求める人物の内面心理状態を、鋭く、美しく、比喩的でありながら分かりやすく、考え込ませられる文言で表現されていく。
よくぞこのような書き方が出来ると感嘆するばかり。これが村上春樹の正体ではないかとも感じるが、どうしてそのような書き方ができるのかが疑問である。

前作の「1Q84」

2009年5月発売の「1Q84」も大ベストセラーになった。
「1Q84」は、

●「現実」=月がひとつの世界と、
●「もうひとつの現実」=月が二つ並んでいる世界、

この間を行き来するという設定で物語が進んでいく。

今回の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」も、夢の中で、現実にあり得ない物事が語られていくというストーリー展開であって「現実世界」と「もうひとつの現実」が交互しつつ、次第に本当の自分を見つけ出していく物語になっている。

ところで、実際の村上春樹はどういう生活態度なのだろうか。

「村上の生活は規則正しい。夜9時ごろに就寝し(彼は夢を見ることがない)、目覚まし時計なしに午前4時ごろ起きる。起床したらすぐに、マッキントッシュに向かって午前11時まで執筆する。一日の執筆量は400字詰め原稿用紙10枚ほど」(2005年1月ニューヨーク・タイムズ)

このようにまことに規則正しい生活スタイルを、一日も休まずに続けているという。ということは、夢も見なく、オカルト的な体験もしていないのに、「現実世界」と「もうひとつの現実」が交互する世界を描けるということになる。つまり、体験していないことを文章にできるのである。何故、村上はできるのだろうか?

村上春樹は特殊な技術を身につけている

それについて村上は次のように語る。(亜州週刊2003年3月31日~4月6日号 中国)

「想像力は誰でも、たぶん同じように持っているものです。人によってそれほど差があるとは思えません。ただ難しいのは、それに近づいていく場所です。誰でもきっと自分の想像世界を魂の中に持っているはずです。しかしその世界へ行き、特別な入口を見つけ、中に入って行って、それからまたこちらにもどってくるのは、決して簡単なことではありません。僕にはたまたまそれができた。もし読者が僕の本を読んで、その過程で同感したり共感したりすることができたとしたら、それは我々が同じ世界を共有できたということです。

僕は決して選ばれた人間でもないし、また特別な天才でもありません。ごらんのように普通の人間です。ただある種のドアを開けることができ、その中に入って、暗闇の中に身を置いて、また帰ってこられるという特殊な技術がたまたま具わっていたということだと思います。そしてもちろんその技術を、歳月をかけて大事に磨いてきたのです」

 いくつかのインタビューでも同様見解を述べているので、これが村上の実体だろう。

武道の境地に通じる

思想家で村上論を書き継いできた内田樹神戸女学院大学教授は、次のように村上春樹を語っている。(「村上春樹にご用心」ARTES)

「『死ぬ』ということが『隣の家に行く』ような感じになること、それが武道においてはとても大切なことだ。それは必死に武道の稽古をして胆力を練ったから死をも恐れぬ精神に鍛え上がったということではない(そんなことは残念ながら起こらない)。話は逆で、『生死のあわい』におけるふるまい方について集中的に探究する人間は、自分がどれくらいその『ふるまい方』に習熟したのかを武道を通じて『チェック』することができる、ということなのだ。

『死ぬ』というのが『ちょっと、隣の家に行くような』感じになることは子供にも起こる。そういう子供はすごく危険な存在だ。だから、子供にはまず死を怖れさせる必要がある。

その教育の甲斐あって、私たちはみんな死を怖れるようになる。でも、成熟のある段階に来たら、死とのかかわり方を『元に』戻さないといけない。『元』というのは、死者は『すぐそばにいる』という感覚を取り戻すことだ。ある種のコミュニケーション・マナーをていねいに践(ふ)むならば死者と交感することは可能だという、人類の黎明期における「常識」を回復することだ。

 別にオカルトの話をしているわけではない。これが本来人類の「常識」なのだ。ただ、その「常識」を子供たちに段階的に教える教育制度がもう存在しなくなってしまったというだけのことである。

 武道と文学と哲学はそのための回路なのだけれど、「そういうふうに」武道の稽古をしたり哲学書を訳したり小説を読んだりしている人は、もうあまりいない。

 社会学者の書いたものがあまり面白くないのは、あの人たちは「生きている人間」の世界にしか興味がないからである。霊能者の書いたものがあまり面白くないのは、あの人たちは平気で「あっち側」のことを実体めかして語るからだ。「こっち」と「あっち」の「あわい」(注 間のこと)でどうふるまうのが適切なのか、ということを正しく主題化する人はほんとうに少ない。

 村上春樹は(エマニュエル・レヴィナスとともに)その数少ない一人である」

内田樹は、村上が自分の魂の中に入っていくことができ、そこからまた帰ってくることができると述べているが、そうすると村上は「あの世」と「現世」を行き来できるということになる。村上が「二つの世界を行き来できる」技術をどのように体得したかは分からないが、前述した亜州週刊やいくつかのインタビューで、そのことを自ら述べているから事実なのだろう。
 
人は自分を探すために生きているのでは?

人は何のために生きているのだろうか? 家族のためなのか? 会社のためなのか? 社会のためなのか? 国のためか? あるいはお金のためか? それとも何も考えないで生きているのか?
村上春樹の新作は、自分探しの旅にでるストーリーで小説が展開されていくと述べた。

また、「現実世界」と「もうひとつの現実」が交互しつつ、次第に本当の自分を見つけ出していく物語になっているとも述べた。

現代人の多くは「あなたは何のために生きているのか」と問われると困惑し、答えに窮することが多いのではないだろうか。

 そんなことより、自分は他者の眼にどのように映っているのか、ということの方に興味と関心を持ち、その他者によって自分が影響されやすいのではないだろうか。

 また、分からないことがあると、新聞、雑誌、書籍、ネット等から解答を見つけようとして、そこに解答が見つかれば「視野が広がった」「教養が深まった」と思い、そこにひとつの安堵感をもって生きるという癖がついているのではないか。

 しかし、時に、そのような安心・安堵感は気休めにすぎず、自分の魂に安らぎを与えるものでないことも知っていて、今ここにある不安を鎮めるものでないことを分かっているのではないか。もっと別なものが、今とは異なる世界から来ることによって、自らの魂を納得させられると思っているのではないか。

実は、これが人間の普遍性であって、それを村上春樹が小説化しているのではないか。村上春樹の正体とは二つの世界観を持っていることだと思うが、どうだろうか? 以上。

投稿者 Master : 2013年05月25日 11:48

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