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2010年07月20日

歴史的思考力を磨こう

環境×文化×経済 山本紀久雄
2010年7月20日 歴史的思考力を磨こう

とうとつ発言

菅総理の参院選時における「とうとつ」消費税発言について、菅首相も「とうとつ」な感を国民に与えたと陳謝しましたが、身内からも非難が続いています。
7月16日のテレビ朝日で民主党の枝野幹事長が「消費税に触れるなら慎重にやってください」と伝えたが、と発言。
首相の経済政策ブレーン、内閣府参与の大阪大学小野善幸教授も「参院選での菅首相の消費税還付に関する発言は丁寧さが欠けた」との認識を日本記者クラブで会見表明。

これに関する話題は世の中に溢れるばかりです。だが、選挙が終わってからいくら反省しても議席数は戻ってこず、菅政権運営は梅雨が明けないままの状態になりました。

クリンチ作戦

ボクシングの試合でよく見られるのがクリンチです。クリンチとはどちらかといえば負け気味の選手の方から仕掛ける抱きつき作戦、いわば弱者の戦術です。菅首相は自民党が掲げる消費税10%公約に飛びつき、相手を抱きこもうとクリンチ戦術を展開したのですが、これが結果的に大敗北の要因となりました。菅首相は野党時代の癖が残っていたのでしょう。弱者の戦術に長け、政権党としての強者の戦術に慣れていなかったと推論します。

奇兵隊より大村益次郎

振り返ってみれば6月8日、菅内閣がスタートし、菅首相は記者会見で「奇兵隊内閣」になりたいと述べました。この発言について世間はあまり関心をもちませんでしたが、これは問題を残した発言の第一歩と思っています。
菅首相が、同じ出身地の長州藩・高杉晋作を、尊敬する人物と挙げ、高杉晋作が編成した奇兵隊を持ちだすのは、一見、何も問題がないように思われます。しかし、高杉晋作は奇兵隊をつくり倒幕の狼煙をあげた、という意義深い歴史的事実から考えれば、菅首相が鳩山前首相から引き継ぐという政治状況下では、適切な発言ではなかったと思います。
昨年8月30日の衆議院選挙で、民主党は一つの党が獲得した議席数としては過去最多となる308議席を獲得したことで、いわば既に自民党倒幕は終わっているわけです。
問題はその倒幕後の政権運営がしっかりしないことから、鳩山前首相が辞任し、菅首相になったのですから、この政治状況を踏み考え、見習うべき歴史上の人物を上げるとするならば、奇兵隊より大村益次郎になりたい、というのが筋だったと思っています。
大村益次郎も長州出身、長州戦争・戊辰戦争の作戦指導者で、近代明治時代の礎をつくった人物、特に優れていたのは彰義隊をわずか一日で壊滅させた上野戦争の緻密な計画に基づく作戦と指揮の見事さで、その緻密さと計画性について菅首相は学ぶべきでしょう。

歴史的思考力

考えてみれば、鳩山前首相も歴史的思考力が欠如していたと思えます。山内昌之東京大学教授は沖縄普天間基地問題に対し「歴史的思考に基づく常識力を発揮すれば、沖縄県民と米国政府と連立与党社民党のすべてを満足させる解の発見は絶望的なほど難しいか、不可能なことがすぐにわかったはず」と述べています。
ここでいう歴史的思考力とは、記録された歴史の事実から説き起こし、今の現実で発生している概念や特定の状況に適合させ、考えられる力のことです。
また、理想を性急に実現できるのは、革命期に限るわけですから、常識的に考えれば、昨年8月の自民党を倒した後は、緻密な計画性に基づく政治運営が求められていました。

司馬遼太郎のアームストロング砲説

司馬遼太郎は大村益次郎を「花神・かしん」で書きました。NHK大河ドラマでも放映されましたから、大村を知ろうとする人はたいがい「花神」を読みます。
この中で大村の緻密な計画性の事例として、幕末の上野の山で行われた、彰義隊壊滅の作戦を幾つか取り上げています。例えば、戦況ニュースというべき戦陣新聞「江城日記」を大村が自ら書き、毎日発行し、情報の一元化を図った事などです。
中でも「花神」で最も強調している成功作戦は、アームストロング砲の威力で彰義隊を壊滅させた事です。このアームストロング砲は佐賀藩が所有していた、後装式砲(後ろから弾を込める)ライフル砲を改良したもので、伝説的に語り草になっている砲です。
確かに、午前中までの戦いは彰義隊が優勢で、上野の山の諸門とも官軍を寄せつけませんでした。その苦戦の戦況を一変させ、彰義隊が一気に崩れたのは「花神」によると、午後から発射されたアームストロング砲の威力であり、これで彰義隊は動揺し、士気を落とし始めたその時に、薩摩兵が主力を黒門口に前進させ、防御を突破したというのです。

アームストロング砲への疑問

だがしかし、常に世には異説があります。それを伝えるのが「真説上野彰義隊 加来耕三著 NGS出版」です。この中で加来耕三氏は
「これまで世に出された彰義隊関連の書物は、例外なく上野戦争の勝敗の要因に、このアームストロング砲の脅威を掲げているが、黒門口に一発の砲丸すら当たった形跡がないように、不忍池を越えて二、三の子院を破壊したとしても、その実、彰義隊が夜までもちこたえられないほどの脅威ではなく、事実は覆面部隊の投入だった」と述べ、それを証言しているのが彰義隊の菩提寺である荒川区の円通寺住職の乙部融朗氏の以下の談話です。
「現在、円通寺に残っている黒門を見ても、大砲が当たって壊れたような個所はありません。ただし、小銃の弾痕はかなりたくさん残っています。黒門は上野の山の最前面にあるので、大砲でいちばん先に撃たれて当然のはずですが、円通寺の黒門が事実を証明しています」と述べています。

覆面部隊の投入

円通寺住職は続けます。「大村益次郎は卑怯な戦術を用いました。秘密にコトをおこなうため、手勢の長州兵を川越街道へ回し江戸を離れさせ、日光街道の草加へ大迂回をさせ、前の日の十四日には千住の宿に泊まり、翌五月十五日戦いの当日の昼ごろ、会津の援兵と称して上野の山に、今の鴬谷駅のあるところにあった新門から入りこんで、文化会館の北寄りのところにある磨鉢山という古墳のところまで来たときに会津の旗をおろして、代わりに長州の旗を掲げ、黒門口を中から撃ったので、山内は大混乱。こうして死ぬまで戦うつもりが、潰走しなければならなくなり、雨の中、昼を少し過ぎたころには、あっけなく崩れてしまいました。これが戦いの模様でありました」と。

現場で確認してみた結果

彰義隊が壊滅されたのは旧暦慶応四年五月十五日、新暦では七月四日になりますので、先日、この暑い盛りの日に鉄舟研究会メンバーと上野公園内を探索してみました。
まず、ことごとく焼失した寛永寺で唯一残った、輪王寺宮法親王が居住していた寛永寺本坊表門のところに行って、門を子細に見ますと、確かに銃弾の跡がいくつも残っていて、激しい戦いが行われたことが分かりますが、アームストロング砲が当たったと思われる傷跡はありません。
西郷隆盛銅像と彰義隊の墓の先に清水観音堂があり、堂内に明治期の画家五(ご)姓(せ)田(だ)芳(ほう)柳(りゅう)の描いた「上野戦争図」があり、その脇に実物の砲弾が展示され、これが椎ノ実型の砲弾であり、これが本郷台から発射されたアームストロング砲とすれば、大きさから見て木製の寛永寺本坊表門なぞは一発で破壊されたと思われます。
ここで大村益次郎という類稀なる人物の特性、それは優れた計画性にあるわけで、その資質から考えるなら、事前に佐賀藩のアームストロング砲を試射したはずで、その結果、アームストロング砲の実力を判断し、これでは決定的な壊滅対策にならず、そこで覆面部隊投入を考えたと理解するのが自然だと結論付けしました。

歴史的思考力を磨こう

大村は作戦を組み合わせできる優れた人物です。勝利のためにアームストロング砲だけに頼らず、敵の裏をかく覆面部隊作戦は、緻密な頭脳から引き出された当然必要な作戦であり、彰義隊がそれらを予測し対応をとらないのが問題なのです。過去の歴史的事実を把握し、そこから説き起こし現実の状況に適合させるという歴史的思考力が、今の時代を運営するリーダーには特に大事で、歴史を実践的に学ぶ必要性を改めて感じています。以上。

投稿者 Master : 2010年07月20日 11:25

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