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2011年07月20日

2011年7月20日 村上春樹の見事な解答

YAMAMOTO・レター
環境×文化×経済 山本紀久雄
2011年7月20日 村上春樹の見事な解答

フランスで

7月はボルドーにワインと土壌の関係について調査に行きました。今年はワインと関係する仕事が多く、2月はカリフォルニアワインのナパバレー巡り、5月はチリのサンチャゴ郊外のビーニ・コンチャイ・イ・トロ Vina Concha Y Toroを訪問し、今月がボルドーというわけです。

パリに着いた日に会った日本人女性、会った瞬間「フランスでは福島原発問題で、日本政府は何か重要な事を隠しているという評判ですよ」と忠告されました。指摘されるような報道態勢であった事は認めつつ、一般の人たちの感覚は鋭いと改めて思います。

次の日、ボルドー市街の中心地で、ボルドー大学地質学教授からいろいろボルドーの地質構造について教えてもらった後、原発問題の報道について確認してみると「私の関係する人たちは、研究者・学者が多いので日本政府の発表を信用しています」との発言です。

アンケート結果と合致している

パリでの指摘とボルドー大学地質学教授の発言にみる食い違いは、米ボストンコンサルティンググループ(BCG)のアンケート調査と一致しています。BCGが訪日安全性について、その情報源の評価を一般人に聞いた結果、日本政府を「信用できる」という回答は、わずか14%でしか過ぎませんでした。しかし、半面、国際機関や研究者のグループは90%の人が「日本政府を信用できる」と回答しているのです。

パリの日本人女性指摘と、ボルドー大学地質学教授の発言は、BCGのアンケート結果を完全に裏づけていますが、どうしてこのように「一般人」と「国際機関や研究者」で全く反対といえるような大差な結果となっているのでしょうか。

そのところを、このレターで安直に結論付けてはいけないと思いますし、ひとり一人が考えてみなければいけない大きな日本の課題だと感じています。

世界と日本の感覚ちがい

今回の東日本大震災時に、被災地の人々がとった行動を、世界の人々が賞賛しています。これは4月5日のレターでお伝え済みですが、再度、振り返ってみると、ル・モンドは「驚くべき自制心は仏教の教えが心情にしみ込んでいるからだ」と分析し、イズベスチヤは「日本人は自分たちを一つの大きな家族と捉えている。そこには宗教や道徳観、強い民族的自覚が影響している」と書き、デイリー・テレグラフは「何をするときでも正しい作法に則ってやりなさい、というのが日本の暮らしの大原則だ。茶道がいい例だ」というように解説していていました。

東日本大震災時の日本人の行動は、世界中の国とは価値観が異なる民族である事を認め、そこに日本の何かが存在しているのだと、日本人を精一杯研究し推考しているのです。

日本人からの解答がない

ところが、日本の新聞報道は被災地の人々の行動に対し、どのような報道だったでしょうか。
著名な作家・建築家・経営者の新聞掲載内容を読みますと、外国人の反応を誇らしげに受けとめ、日本人は「やさしさ・愛等の人間の本質的なものを持っている」というように、日本人のDNAに要因があるというような内容に止まっています。

日本人には世界の人々と違う何かがあり、それはどこでどのようにいつから身についたのか。その本質面からの日本人分析を行い、世界中の人々が称賛するが、その要因について疑問を持つ外国への解答を未だ明確にはしていないのです。

斑目委員長の自己批判

実は、この分析力の甘さが、今回の福島原発事故が人災だと言われている最大の要因ではないかと思います。

国の原子力安全委員会の斑目春樹委員長も「天災というより人災だった」と自ら認める発言をし、かつて国際原子力機関(IAEA)から規制行政庁として保安院が独自の基準を設けるべきだと勧告されてきたにもかかわらず「改定の議論ないままズルズルときてしまった」と述懐し反省している始末です。(日経新聞2011.6.27)

世界から見ると福島原発の管理基準は甘く、その事実を以前から指摘されたのに対応しない。つまり、世界からの疑問に解答しないまま3:11を迎えてしまったのです。世界から日本を見るという視点が甘いと言わざるを得ません。

被災地の人々の行動分析と解答

このレターでは、被災地の人々の行動がどこから起因しているのか。それを早く解答すべきと考え、それが「武士道」に起因しているのではないかとの洞察を行ってきました。

その根拠は、新渡戸稲造「武士道」第二章「武士道の源をさぐる」で「まず仏教から始めよう」と述べ、いくつか解説する中で仏教によって「危険や災難を目前にしたときの禁欲的な平静さをもたらす」述べているからです。これに従えば、被災地の人々が見せた行動は、仏教に起因している事になります。

しかし、この仏教に起因するという程度の解説では、論理的に鋭い外国の識者は納得しないし、私が世界各地で直接お会いした人々も同様でしたので、何とかしなければいけないと思い続けていました。

村上春樹のスペインでの解答

ところが、その解答を見事に展開してくれたのが、村上春樹の2011年6月9日スペイン・バルセロナにおけるカタルーニア国際賞授賞式講演です。以下がその内容です。

「日本語には無常(mujo)という言葉があります。いつまでも続く状態=常なる状態はひとつとしてない、ということです。この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、すべてはとどまることなく変移し続ける。永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。これは仏教から来ている 世界観ですが、この『無常』という考え方は、宗教とは少し違った脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、民族的メンタリティーとして、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。

『すべてはただ過ぎ去っていく』という視点は、いわばあきらめの世界観です。人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だ、という考え方です。しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。

自然についていえば、我々は春になれば桜を、夏には蛍を、秋になれば紅葉を愛でます。それも集団的に、習慣的に、そうするのがほとんど自明のこと であるかのように、熱心にそれらを観賞します。桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば混み合い、ホテルの予約をとることもむずかしくなります。

どうしてか?

桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまうからです。我々はそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。そしてそれらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚(はかな)く散り、小さな灯りを失い、鮮やかな色を奪われていくことを確認し、むしろほっとするのです。美しさの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、かえって安心を見出すのです。

そのような精神性に、果たして自然災害が影響を及ぼしているかどうか、僕にはわかりません。しかし我々が次々に押し寄せる自然災害を乗り越え、ある意味では『仕方ないもの』として受け入れ、被害を集団的に克服するかたちで生き続けてきたのは確かなところです。あるいはその体験は、我々の美意識にも 影響を及ぼしたかもしれません。

今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けましたし、普段から地震に馴れている我々でさえ、その被害の規模の大きさに、今なおたじろいでいます。無力感を抱き、国家の将来に不安さえ感じています。

でも結局のところ、我々は精神を再編成し、復興に向けて立ち上がっていくでしょう。それについて、僕はあまり心配してはいません。我々はそうやって長い歴史を生き抜いてきた民族なのです。いつまでもショックにへたりこんでいるわけにはいかない。壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は修復できます」

何と見事な解答ではありませんか。さすがに世界の普遍性を説き書く村上春樹です。世界の人々の疑問・関心事を公の場で分かりやすく説明したのです。

本質的究明を行い、明確に具体的にするという表現力を我々は磨く必要があります。以上。

投稿者 Master : 2011年07月20日 06:32

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