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2010年02月05日

2010年2月5日 ロールモデルなき人口減政策

YAMAMOTO・レター
環境×文化×経済 山本紀久雄
2010年2月5日 ロールモデルなき人口減政策

日本と中国の同一性

日本は島国である。これは誰もが認めるだろう。ところが、中国も島国だという見解もある。中国は広大な国土であり、人口も世界一であるから、とても島国とは思えない。

しかし、次の地図をよく見てみると、中国は海に面していない地域が通過不能な地形や荒れ地に囲まれている。北方には人口まばらで横断が困難なシベリアとモンゴル草原地帯、南西は通過不能なヒマラヤ山脈、南部国境はミャンマー、ラオス、ベトナムと接する山と密林地帯、東は大洋で、西部国境だけがカザフスタンと接し大移動が可能だが、もし行おうとしたら大変な苦労が伴うであろう。その意味で中国は日本と同じく島国といえる。

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もう一つ同一性は鎖国である。日本の江戸時代は鎖国をしていた。しかし、中国も同様に鎖国をしていたことを理解する人は少ない。元々日本の鎖国は中国を見習ったものであった。清国が鎖国(海禁政策)をしていなかったなら、日本が鎖国をしたかどうか疑わしい。当時の日本は中国をロールモデル(お手本)にして取り入れることが多かった。

開国結果は異なった

だが、この両国の鎖国は、19世紀半ばから始まった、欧米列強のアジア進出で開国を迫られ、お互い鎖国から開国へと国是を変更させられたが、その結果は大きく異なった。
清国は、沿岸部を侵略占領植民地化され、その回復には第二次世界大戦の終了まで待たねばならなかった。一方、日本は幕末維新時代に他国に侵略されず鎖国を終え、その後の成長発展に開国を結びつけることができた。この差の要因はどこに起因するであろうか。勿論、それは国内の戦争、官軍対幕府軍の本格的戦いを避け得たことで、仮に内戦をしていたら、独立国として維持できたか、歴史に「たら」はないが、今考えてみても恐ろしい。

何故に内戦にならなかったか

それはいくつかの要因が重層的に重なり実現されたものである。
まず、徳川慶喜の勤皇精神と時代感覚が大きかった。慶喜は戦いを避けた勇気なき将軍という評価もあるが、日本を外国勢に侵略されないよう、自ら将軍の地位を去り、和平路線に戦略を転換したことが最大の理由である。ということは、慶喜が持つ当時の政治と世界の動向把握力が鋭敏であったことに起因する。ここで争っては清国の二の舞になる、その時代感覚が慶喜の恭順路線となり、江戸城を捨て、上野寛永寺に謹慎蟄居という行動になったのである。
では、何故に慶喜将軍はこのような時代感覚を要し得たか。それは、それまでの将軍とは行動する舞台が全く異なっていたからである。歴代の将軍は江戸城奥にて政治を行っていた。ところが慶喜は将軍就任時も、それ以降も、また、14代家茂将軍時代にも、慶喜の居住は京都であった。何故なら幕末時、すでに政治の中心は京都・大坂の地に移っていて、ということは天皇が政治に関与しだしたという意味であるが、そのためには京阪の地に将軍が常住する必要があった。その結果として、慶喜は時の情勢の中に身をおき、時代感覚を肌で感覚できる環境にあった。
これが慶喜将軍の強みであり、弱みであって、結局、戦わずして江戸城を官軍に引き渡すという意思決定に結びついたのである。

人事が日本の危機を救った

鳥羽伏見の戦いに敗れ、将軍になってはじめて江戸城に戻った慶喜は、上野寛永寺に謹慎蟄居を判断する前、今後の帰趨を決める重要人事を断行した。勝海舟を陸軍総裁に任命したことである。
ご存知の通り海舟は咸臨丸でサンフランシスコに行ったように、ずっと海軍育ちである。新たに陸軍を預かることなぞ、今までの海舟履歴からしてあり得ない。また、陸軍は元来、海舟の政敵たちの牙城であった。その中核には陸軍奉行並小栗上野介がいて、歩兵奉行の大鳥圭介がおり、さらにその背後にはフランス公使のレオン・ロッシユと教法師(宣教師)メルメ・デ・カション以下の軍事顧問団がいる。その上最悪なのは、第一次長州征伐以来、陸軍は連戦連敗であり、まさにその劣等感がとぐろを巻いているような部隊であった。
このような陸軍を海舟が抑えられるか。それが慶喜の打った人事の要諦であった。何故なら、慶喜が恭順を実行に移すために必要な第一歩は、なによりもまず幕府内の主戦派の抑制でなければならなく、それを行うのが海舟に課せられた最大の役目であった。
しかし、実は、もっと重要な要素、海舟が陸軍総裁にならなければならない必然性が存在した。それは官軍側に送る外交シグナルである。主戦派を抑え、恭順派によって幕府内を握らしたというサイン、それが慶喜にとって必要だったからである。
さらに、この人事の背景には、もうひとつ国防に対する認識があった。それは、この時期、日本にとって守るべきは内乱であり、海外からの脅威ではないということ、つまり、海防ではなく、幕府対官軍の全面衝突という戦いと、幕府内の対立抗争という二つの争い、それは内乱であるからして当然に陸軍を抑えるという戦略となり、そのためには恭順派の代表的人物の海舟が任命され、それは海舟が事実上幕府の全権を背負ったという意味になるが、その不可避の人事を成したのは慶喜であった。
敗軍の将軍、慶喜の時代感覚は結果的に冴えていたといえる。

その後の発展要因

このように内戦を避け得た日本は、幕末維新時を巧みに切り抜け、近代国家として変身した成功要因については、すでに十分に分析され、語られているが、もっとも背景条件として大きかったのは人口増であろう。幕末維新時約三千万人であった人口が、現在一億二千万人、四倍に増加している。これが国力を大きく発展させたことは容易に判断できる。人口増なくして今日の成長はなかったのである。
しかし、時は変わり、今は人口減に向かっている。未だその減少実数は少なく、全体への影響は顕著になっていないが、いずれ大きな問題となっていくことは確実である。

ロールモデルなき人口減政策

世界について考え、将来の出来事を予測する手法を地政学という。地政学は二つの前提で成り立つ。一つは、人間は生まれついた環境、つまり、周囲の人々や土地に対して自然な忠誠心をもっているという前提。この意味は、国家間の関係が、国民意識と非常に重要な側面を持つ。二つ目は、国家の性格や国家間の関係が、地理に大きく左右されると想定すること。この二つの前提で、一国は国民意識によって結ばれ、地理の制約を受けながら、特定の方法で行動することになる。中国は中国でしかない特定の方法で行動するということで、日本も他国も同様である。
日本を地政学的に考えれば、地理的に隔離された資源輸入国であり、日本人は実力本位で登用された支配層に対し従おうとする統制された国民意識があり、それらから国家の分裂を避けようとする社会的・文化的影響力を内在し、短期間のうちに秩序正しい方法で頻繁に方向転換できる民族で、これが明治維新に端的に顕れたのである。
しかし、ここで地政学的見地の別角度から指摘しなければならないのは、日本人は外国人を移民として受け入れること、これに強い抵抗感を内在させている国民であること。それが前号レターのサンパウロ日系三世女性の発言で証明された。
これが日本人が持つ大問題であり、この内在要因を抱えつつ、日本は世界にロールモデルなき先端人口減政策を展開しなければならないが、解答を見いだせない問題です。以上。

【2010年2月のプログラム】

2月12日(金)16:00 渋谷山本時流塾(会場)東邦地形社ビル会議室
2月15日(月)18:00 経営ゼミナール(会場)皇居和田蔵門前銀行会館
2月17日(水)18:30 山岡鉄舟研究会(会場)上野・東京文化会館

投稿者 lefthand : 2010年02月05日 07:01

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