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2008年09月05日

2008年9月5日 ネット化でヒトはバカになるのか?

環境×文化×経済 山本紀久雄
2008年9月5日 ネット化でヒトはバカになるのか?

太陽の塔

 大阪モノレールの万博記念公園駅を降り立つと、真夏の陽射しが強く、それが高さ65メートルの「太陽の塔」に当たり、照り返し、未だに1970年・昭和45年の熱気を感じさせます。当時の日本は高度経済成長の真っ直中にいました。まさに「躁の時代」のシンボルが大阪万博で、テーマは「人類の進歩と調和」、入場者数6400万人という博覧会史上最高の人数でした。
 それから35年後、2005年に開催された名古屋万博、こちらのテーマは「自然の叡智」、入場者数2200万人で大阪の約三分の一、明らかに低成長経済を示し、日本は「鬱の時代」に入っていることを証明する人数です。

国立民族学博物館

 万博記念公園駅を降り立ったのは、国立民族学博物館の図書館に行くためでした。8月初旬と中旬の二回訪れました。訪問目的は、現在取り掛かっている研究のためです。
 この図書館の蔵書は60万冊。文化人類学・民族学関係の資料を収集している図書館としては、日本最大規模を誇っていることもありますが、最も素晴らしいのは直接書庫に入ることができ、自ら書棚から書籍を取り出せ読めることです。
東京の国立国会図書館は、検索用端末で調べた書籍を閲覧請求するシステムで、書庫内には入れません。ところが、民族学博物館は自分で書棚から探せるのです。ということはテーマとキーワードで検索用端末から探す以外に、五層建てになっている書庫内を自由に歩き、関係すると思われる分野の書棚に行き、それを見つめているうちに、そこに新たなる資料発見があって、思わぬ収穫が期待できるのです。
 これをやりだすとその醍醐味に取り憑かれます。今まで想像もしていなかった資料に出合え、それを抱えて書庫内の片隅にある机で読み出すのですが、この繰り返しをしていると時間の経つのも忘れ、館内に響く終了時間のアナウンスでハッと気づくまで、濃密な時間を過ごせます。図書館を後にして、駅に向う緑多き万博公園内を歩いていくと、何か昔に戻った懐かしさに溢れ、豊かな気持ちになります。

現代人は何かを失っていないか

 多くの現代人は、何か分からないことがあるとパソコンで検索し、ネット情報を集め、さらに、そこから短くまとめてある一節を探しだし、ざっと走り読みするようになっているのではないでしょうか。ある人は、この状態をスタッカート(一音ずつ短く区切る奏法)といっています。当然、私もそうなっています。
 これに対し、インターネットが普及する前はどうだったのでしょうか。何かを調べるには図書館に通い、そこに所蔵されている本に没頭したり、保管されている長い記事に読みふけったりすることが一般的であったと思います。
 また当時は、テレビや新聞紙上で展開される長い議論にも、それほど抵抗なく一緒に議論できたのではないでしょうか。さらに、トルストイの「戦争と平和」を一心不乱に読んだように、長い文章を何時間も夢中になって目で追い続けたのではないでしょうか。

簡単に検索で知ることが出来る

 国立民族学博物館の図書館内には、ごく僅かの人だけが訪れてきます。ここに勤務している人よりずっと少ないのです。ですから、書庫内はいつも深閑としています。
 かつては図書館に何日も通って調べなければ分からなかったものが、今は簡単にネット検索によって、数分・数秒で必要な情報が入手できるのですから、調査で図書館に行く人は少ないのです。便利になったものです。分からないことはすぐに知ることが出来る素晴らしい時代になっています。
今や、ネットは「複合的メデイア」になっていて、目と耳を通じて意識に多くの情報を伝えてくれる媒体として有効で、膨大な情報が瞬時に手に入るメリットは多いと思います。グーグルやヤフーでちょっと検索をし、いくつかのリンクをクリックするだけで、必要な情報や、使える引用句を見つけ出せることが出来ます。
さらに、メールマガジンを読み、ブログの投稿をチェックして、リンクからリンクへと簡単な旅が出来、その楽しみは大変なものです。

人間の脳は可塑性があるから危険性が高い

 しかし、この結果は人に何をもたらしていくのか、何かの危険を最近感じています。
 例えば、仕事関係者に懸案事項を調べるよう依頼した場合、ネットで検索し見つからないと「調べた結果わかりませんでした」と答えることが当然化し、それで業務責任を免れることかできると思っている事例が、多々発生しています。
 これは、ネット検索以外に調べる術を失っていることを証明しているもので、人間が持つ本来思考力が、ネットによって侵食され始めているのではないかと怖れています。
 私の師、故城野宏が「脳力開発」を提唱した当初は、脳の神経細胞は140億個といわれていました。今はそれが1000億個を超えるといわれています。また、脳細胞のシナプス結びつきパターンは、成人するころにはほぼ固まっていると考えられていましたが、脳の研究が進んで、常に可塑性、つまり、大人の脳でも変化していくことが分かってきました。ということは、脳は常に古いつながりを破壊しては、新しいつながりを形作っていることになりますので、ネットの普及と活用は、ネット用の脳に作り変えている可能性が高いのです。
 ですから、ネット検索結果のみで「調査終了」という指令が、脳回路に新たに組み込まれてしまう結果になるのです。

クジラたちが船に激突死

 世界各地でクジラが船舶と衝突して、死んでいく事例が多くなっています。
 フランスの生物学者が、貨物船と衝突した二頭のマッコウクジラを調べたところ、敏感なはずの聴覚機能が著しく損傷していたと発表し、それは、おそらくスクリューが水をかき回す音に常にさらされていたせいだろう、と生物学者は推測しています。
 海洋生物学者の間では、高性能の軍事用ソナー(音波探知機)が海洋生物に致命的な影響を与えていることが知られています。海軍が低・中周波ソナーを使うことで、クジラやイルカが音響に混乱して浜に打ち上げられ、死んでいくという事態が頻発し、ソナー使用の論争が激しく繰り広げられているのです。
 また、エンジンやボイラーの音などによって、海は40年前に比べて10倍ほどもうるさくなっていることが分かってきました。
 勿論、自然界にも、もともと騒音は存在しているのですが、それらと音の種類が違うので、クジラたちは今まで経験したことのない騒音によって、脳の探知力が衰えていくと考えられるのです。つまり、クジラたちの脳も可塑性があるからこそ、聴覚脳が組み替えられ、結果として船舶に激突する危険性が高くなっているのです。

パンケーキになるな!!

 国立民族学博物館の図書館からの帰りに、何か昔に戻った懐かしさに溢れ、豊かな気持ちになったのは、久し振りにネットから離れ、集中して活字の海に潜れたからではないかと思っています。
 仕事柄、本を読む機会は多いのですが、知らず識らずにネットの持つ便利性と速さに満足し、そこに表現されている文脈と、内容の真偽妥当性を十分検討しないまま受け入れてしまうという、知識の単純処理業務をくり返している日常となっているのです。
本来、集中して読み込むということは、著者が持つ知識を集めることでなく、著者が発する文字による言葉が、こちらの意識に知的な共振を生じさせ、自分の中に連想と独自性の考えを浮かばせ、結果的に豊かな思考力を養わせるものではないでしょうか。
 ニューヨークのアンダーグランド演劇界で活躍しているリチャード・フォアマンは、「膨大な情報に接するようになって、薄く拡がっていくパンケーキ人間になる危険を冒している」と警鐘を発しています。
 その通りと感じます。ネットが、我々を助けてくれ助長する読み方、それは「効率性」と「即時性」を強化してくれるものであって、我々が昔に獲得していた「思考に結びつく読み方技術」を失う結果を生じさせる、という危険があるように感じています。
 そのような気づきを、真夏の国立民族学博物館図書館の静寂が教えてくれました。
                              以上。

投稿者 lefthand : 2008年09月05日 08:33

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