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2007年12月06日

2007年12月5日 ドイツの日本

環境×文化×経済 山本紀久雄
2007年12月5日 ドイツの日本

中田英寿さん

サッカー界から引退した中田英寿さんが旅を続けています。その中田さんが旅の中で感じた日本について、次のように述べています。(クーリエ・ジャポン12号)

「悪い印象はないでしょうね。日本人って非常にいろんな国で受け入れられていると思うんですよ。もちろん戦争で戦った国なんかは別かもしれないですけど、特にヨーロッパでは日本のイメージは良くて。まずは経済、あとはテクノロジーとかで日本はすごいというイメージがありますし、他には禅のイメージも強くて、日本人は他の人種に比べて怒らないし、すごくいい人たちが多いと思われている。ビザや国境での手続きでも、日本人は信用されているし、これは大きなメリットだと思いますね」

 これに全く同感です。

カールスルーエの街

カールスルーエはドイツ南西部、バーデンウェルテンベルク州、街の中心に城があり、そこから放射線状に道路が広がっている、バロック時代の典型的な計画都市です。第二次世界大戦で大きな被害を受けましたが、歴史的建造物の大部分を元通りに修復しました。ドイツでは戦災の被害から、街を元通りにすることが多く行われていますが、どうもその発想の根源に、「街は記憶装置」(池内紀氏)という考え方があって、街並みをがらりと変えてしまったら、過去の歴史が消えてしまう、という意識が強いように感じます。

その代表例がカールスルーエで、ドイツで始めての名門工科大学もあり、石油精製、電機、機械、鉄鋼、建築資材、医薬品などの企業も多く、人口は約30万人の街です。


カールスルーエの独日協会との縁

カールスルーエを知ったのは一人の建築家からでした。温泉で有名なバーデン・バーデンで、かの美人女優マレーネ・ディートリッヒが「世界で最も美しいカジノ」と称した建物を見学し、これがフリードリヒ・ワインブレナー(Friedrich Weinbrenner)の建築であって、カールスルーエで市庁舎他有名建築物を遺していることを聞き、それを見に行ったことからでした。

その後何かとこの街には縁があり、何回か訪ねるうちに、ここの独日協会という組織の存在を知ったのです。独日協会とは、日本に関心ある人々が集う会です。


ドイツのクラブ活動

ここで少し補足したいと思いますが、ドイツ人の余暇の過ごし方は、日本人に比べ個性的で、多くの人は「クラブ」を拠点として余暇活動をします。

この「クラブ」とは、同好の士が集まってつくるもので、いわゆる何々同好会とかの名称をもち、おもに公益法人としてNGO・NPO のような性質と、学校のクラブ活動の性質を兼ね備えたものです。合唱会、切手収集、つり同好会、コーラス、まんがアニメ同好会、ありとあらゆるスポーツ団体もあり、その中には黒い森同好会(活動はおもにクロスカントリー)などなど多彩で、この一つとして独日協会があり、この他に日本語学校も同好会として組織化されています。


独日協会の日本好きな人

現在、カールスルーエの独日協会は、会員200名、内日本人は12名、年齢は高校生から高齢者まで幅広く、毎月定例会が開催され、平均して30名から40名が参加し、日本食レストランで食事しながら熱心に活動しています。

活動内容は、勿論日本の研究ですが、今回、その会員のお宅にお伺いする機会がありましたのでご紹介いたします。

(横浜に4年住んで好きになった)

カールスルーエの目抜き通りを走る路面電車で終点まで行き、森を開発した住宅街の地下一階と地上三階の棟続きの家、そこの46歳の専業主婦を訪問しました。

ご主人は電機関係の仕事で日本に転勤し、昨年まで4年間横浜に住んでいました。

玄関に入るとコート掛けの隣に、見慣れた日本語がかかっています。何と相田みつをの掛け軸です。日本にいた時に三回も「相田みつを美術館」行ったと、日本語で語ってくれます。上手な日本語ですので、日本で一人旅ができたでしょうと伝えますと、頷き、一番の思い出は、夫と子供が先にドイツへ帰った2006年の夏、一人で京都と紀伊半島を廻ったことだ、とうっとりした表情で語ります。

さらに、日本食も大好きで、中でもすしが好きで刺身も自分で作って食べるし、てんぷらを揚げ、そば・うどんも打つというレベルです。カレンダーも日本の風景物ですが、企業名はカットするという細かい配慮が行き届いていて、二階への階段には東海道の浮世絵が飾ってあります。

玄関からキッチンと居間はワンルームで、水道水を薬缶で沸かし、急須に煎茶を入れて出してくれます。水道水はそのまま飲めます。壁の食器棚の上には、ヤマサ風味出しの缶、柿の種の大きな缶、だるまが三個など飾られ、家の中は日本が一杯です。

趣味はスポーツで、サイクリング、ハイキング・ワンダーフォーゲルですので、日本でもよく鎌倉界隈と東京周辺、加えて北海道から伊豆、京都、紀伊半島、岡山、広島、九州を廻り、温泉も各地に行ったが草津の露天風呂が一番よかったといい、日本のよさは伝統文化と自然だと言い切りますが、地元の温泉バーデン・バーデンには行ったことはないと笑い、日本人より日本が詳しいと、再び爽やか笑顔を見せます。


(すし教室参加から日本好きに)

教会前に建つアパートメントの二階。入ると天井が高く、廊下の壁には現代絵画デザイン、居間には大きな現代画が立てかけてあり、機能性と知的感と創造性がミックスされた、180㎡の夫婦二人住まいの高級住宅です。

その中の一部屋は日本部屋で、奥さんの名前であるルボム「留慕夢」の掛け軸から始まって、日本に関する本や資料・物品が部屋に溢れています。

日本とのきっかけは、すしです。奥さんがご主人に、市民大学「すし教室」のチケットをプレゼントし参加し、独日協会を知り入会して、カールスルーエ合唱クラブの日本公演に随行し、日本各地を廻って、今や大の日本ファンになったのです。

この合唱クラブは、カールスルーエ音楽大学教授が指導し、アマチュアの域を超えていると自慢していますが、すしの魅力から日本好きになったように、今やすしの人気は、世界中に広がっていることを証明する事例です。


(日本の軍人に出会ったことから)

カールスルーエの郊外駅を降り、小高い丘の坂道を歩き、道路からのアプローチが長い一軒家のドアを開けると、赤いセーターにジーンズの76歳の長身女性がにこやかに立っています。お土産のポーチを渡すと、中から膨らませるためのビニール袋を取り出し、ここに日本の空気が入っていますね、と懐かしさに溢れる表情を示します。

この女性と日本の接点は11歳の時に遡ります。北ドイツ地方で父が軍港を造る仕事をしていた関係で、その地方に住み、よく妹と海岸の砂浜で遊んだ。

ある日のこと、向こうから他国の見慣れない軍服の人が、手を後ろに組んで歩いてきて、一つの果物をくれた。始めて見るもので、リンゴではないということは分かったが、どうやって食べるかわからなかったので、そのまま口にすると苦かった。その軍人は笑って皮を剥いて食べさせてくれた。甘いみかんで美味しかった。

次に、ポケットから一枚の写真を出して見せてくれた。家族が写っていたが、ドイツとは違う服装、中国人ではないと直感的に思い、後で知ったが着物姿であり、日本人だと分かった。そのとき以来、ずっと強く日本に興味があり、日本の本や資料で日本を研究し、庭を日本庭園にした。そう言われ庭を見ると灯篭がいくつもあります。

この庭仕事をしてくれた庭師から、独日協会の存在を知り、紹介してもらい訪ね、日本に行きたいと申し出をすると、入会しなさいといわれ、1998年に3週間、憧れの日本に行くことが出来た。実際の日本は素晴らしかった。表現できないほど夢中で旅を続けた。勉強した日本語がデパートで通じ、買い物が出来たのも嬉しかった。


中田英寿さんの発言通り、ドイツ地方都市でも日本が受け入れられています。以上。

投稿者 staff : 2007年12月06日 11:47

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