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2007年11月05日

2007年11月5日 そう単純でない

環境×文化×経済 山本紀久雄
2007年11月5日 そう単純でない


BRICsとブラジル人

BRICsのブラジルは日本から遠い。成田からNY経由の直行便利用で24時間、ようやくサン・パウロのグアルーリョス国際空港に到着しました。空港から市内中心部に向かう道路は四車線の広さですが、一日中渋滞していて、経済実態が順調なことを、車の増加による渋滞が示しています。

ブラジル経済成長率は1995年が2.9%、06年が3.7%、07年1月から6月は4.9%、年々成長率が増えてきて、以前は資源輸出中心でしたが、07年1月から6月の家計支出は5.9%増、民間建設は4.3%増となっているように内需中心に成長しています。このようにBRICsのブラジル・ロシア・インド・中国の成長が、先進国が成長鈍化しつつある世界経済を引っ張っていることは、よく知られています。

そこで、その事実を確認してみようと、ブラジルでお会いした多くの人にBRICsについて話題を向けてみたが、思わぬ答えが帰ってきて驚くばかりでした。

まず、BRICsという言葉、それを全く知らない。こちらが解説しても、眼は疑いを持って納得しない顔つきを示す。そこで、ブラジル地理統計院発表の経済データを示すと、今度は「そのようなことはテレビで発表されていない」「政府が知らせないようにしているのではないか」というような疑問系で反論してきます。

では、海外からブラジルはどのようなイメージで受け止められているのか、という質問をすると「余りよいイメージはないだろう」「治安が悪く、貧しさが目立ち、文化面が遅れている」という答えに、今度はこちらが唖然とするばかりでした。

この体験をサン・パウロの日系企業幹部に話してみますと「その通りだ。殆どBRICsということを知らない」との回答でしたから、まず、ブラジル国民は全く認識していないといってもよいと思います。

日本では、毎日のようにBRICsが話題となって、関連するデータや資料が多く出回っていますが、当事者のブラジル人は無関心ですから、現地でBRICsと関連づけようと一般の人々に聞いても、世界が認めているBRICsブラジルの背景要因を、「そう単純」に現地でつかめません。


現代美術とヘリコプター

MASPサン・パウロ美術館には、中世以降の世界の作品絵画約1000点の名画が並んでいます。ここの建物は特徴があって、四ヶ所の角柱でしか建物を支えていない構造となっています。したがって、一階は外と連動した吹き抜け。二階からの展示場も柱なしの美術館で民営です。

ここで展示されている現代美術作品を見ましたが、作品の意味背景が分からない。そこで学芸員のパウロ・ポルテラさん、小柄なイタリア系の親切な人ですが、ガイドブックを持ってきて説明してくれました。

例えば、黒色の四角が九つランダムに壁に貼られている作品、これは上空からビルを撮影すると、屋上は四角形で建築されていることが多いので、その四角をヒントにしたものであり、現代美術のアイディアの基は現代の実態にあることを示している。これがパウロ・ポルテラさんのガイドブックを見ながらの説明でした。

なるほどと思いつつも、サン・パウロの実態を知ってみると、作者はもっと違った風刺的要素で創作しているのではないか。サン・パウロのもつ現代矛盾を表しているのではないか、「そう単純」な思考から作品を創作していないと推測しました。

現在、サン・パウロの自家用ヘリコプター機数は世界一で、その利用者は富豪者であり、用途は日常の移動手段という実態です。

ブラジルは、約500の家族が、一年に生産される国富の5分の2を蓄財し、残りを1億8000万人が分け合っている、と言われている格差大国です。特に、サン・パウロはブラジルで最も豊かな街であると同時に、最も貧しい街です。

ここでの富豪者たちは、酷い交通渋滞とスラム街が同居している街中には、なるべく足を踏み込まないようにし、誘拐・強盗からの防衛もかねて、200以上ものヘリポートを使って、タクシーを乗り回すようにヘリを活用しています。

また、ブラジル人は海が大好きで、週末は市内から70km離れた海岸に向う高速道路は大渋滞となるのですが、ヘリだと30分で到着するので、金曜日の午後は数百機のヘリが海岸に向います。さらに、サン・パウロでは、最高級のスポーツジムやレストラン、銀行などはすべて高いところにあって、富豪者たちは、騒音や悪臭とは無縁なもう一つの空中都市で生活しているのです。

つまり、サン・パウロでは、上を見上げる人と、下を見下ろす人の生活が区別されていて、上空ではヘリによって自由に飛びまわっている社会。一方、庶民たちは予定時刻に来たことがないバスを待ちながら、停留所でひしめき合っている社会。それが混在している街がサン・パウロです。

MASPサン・パウロ美術館に展示されている、黒色四角現代美術作品の背景要因を、ビル屋上から発想するにしても「そう単純」ではない視点があると思いました。


東洋人街の日本語看板

サン・パウロの日曜日、地下鉄で東洋人街があるリベルダージ駅に向かいました。改札口を出ますと、そこは緩やかな階段であり、その途中のベンチに座っているお年寄り夫婦の日本語が耳に入ってきて、日本人の多い東洋人街に来たという雰囲気になります。

階段を上りきったところは狭い広場で、日曜日は屋台がたくさん出ています。ヤキソバ、今川焼き、お好み焼き、焼き芋、天ぷら、民芸品、革製品、銀細工など。観光客よりはサン・パウロ住民が多勢繰り出して、広場は歩くのに苦労するほどです。

この広場から商店が並ぶガウバオン・プエノ通りには、両側に赤い柱に提灯型の街灯、日本語の看板が並んでいます。昔の日本の駅前商店街という感じですが、日本とは活気が全然異なって人が多勢歩いています。通りに面した小さい丸海スーパーに入ってみますと、日本の食料品が何でも揃っています。出口にはレジが七台もあって、土日は店内に入りきれないほど客が来ます。

ところが、この日本語看板の商店の多くが日系人経営ではないのです。客が溢れている丸海スーパーは中国人経営であるように、今や日系人経営は化粧品のIKESAKI、着物の美仁着物、宝石の明石屋、それと地下鉄駅前書店の太陽堂くらいです。

そのことを聞いてすぐに「経営の失敗か」と想像しましたが「そう単純」ではない状況が背景にあり、そこに日本経済が関係していました。

1988年から90年にかけて、日本はバブル絶頂期で人手不足でした。そこで各企業は人材を海外に求め、法務省が認める日系人、それは日本人の親族がいることで、それに合致すると労働ビザが下りるので、ブラジル日系人の間で日本行きが一大ブームになりました。確かに、日本で一年も働けば相当のお金が溜まり、ブラジルは当時不景気で超インフレ、一年間の貯金を持って帰ると一大財産となり「日本は宝の山」と言われたのです。その結果、日本行きの斡旋会社がたくさん出来、そこに1000USドルから1500USドルの現金を払っても、日本に行きたい希望者が殺到した上に、日系人と結婚したいブラジル人が多数発生しました。日系人花嫁求めるという新聞広告も出るほどのブームで、日本までのエアーは常に満席。空港は日系人で一杯。週二便のJALだけでは足らず、週二便のブラジルVARIG航空、加えてヨーロッパ周りで日本へ行く便の利用もあったくらいの過熱ブームだったのです。

その日本行き大ブームに、東洋人街の商店主も乗り、店の権利を中国人に売って日本に行った結果、日本人経営が少なくなりました。勿論、その他の理由もあり日本人経営は少なくなったのですが、いずれにしても、その後、日本のバブルが崩壊し、一転、不況になると、働いても残業は減り、収入の伸びは少なく、為替の変動もあり、「日本は宝の山」神話は崩れ、ブラジルに帰った人もいましたが、日本に長く住み続けて、子供の教育問題や、ブラジルに戻っても失業率が高いので適切な仕事先確保が難しく、結局、そのまま日本で働いている人が30万人くらいいます。

日本移民として始めてブラジルに渡ったのは1908年。ブラジルに「金のなる木」があると言われ、これはコーヒーのことでしたが、多くの日本人が農業移民として渡って、来年は移民100周年となります。ところが、今になってみると、当時とは反対の「ブラジル日系人逆移民時代」ともいえる現象となっているのです。

現実実態の背景に「そう単純でない」要因が存在することを実感いたしました。
以上。

投稿者 staff : 2007年11月05日 18:43

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