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2006年07月22日

2006年7月20日 一身にして二生を経る

環境×文化×経済 山本紀久雄
2006年7月20日 一身にして二生を経る

一身にして二生を経る

「一身にして二生を経る」、福沢諭吉の言葉である。明治維新という激変の中で、自分の体験を二つの人生を経たようなものとして語った言葉です。

徳川幕府時代は下級武士として、緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、蘭学塾を江戸で開き、蘭学が時代の中で役立たないことを見抜き英学に転じ、咸臨丸で渡米し、幕府の外交文書翻訳係りとなり、幕府の外交使節に随行し、仏、英、蘭、プロシャ、露、ポルトガルの諸国を回り、慶応2年(1866)に「西洋事情」を著し、翌年には幕府の軍艦受取に一行に加わり渡米、慶応4年(1868)明治維新の年に慶応義塾を創設した。これが生れてから33年間の江戸時代の福沢です。
明治以後は、ご存知の通り教育と「学問のすすめ」等の著作を中心に多彩な啓蒙活動を展開し、時代のヒーローとして活躍しました。その期間も33年間です。
ちょんまげ時代と断髪時代を半々に生き、福沢はよいタイミングに生れたと、亡くなるときに感じたと思います。もう20年早く生れていたら、当時の稀なる海外渡航要員に選ばれず、また、度重ねる渡航をしていなければ「西洋事情」も書けなかったはずです。逆に20年遅れて生れていたら、明治維新時には少年期で、活躍は出来ず、時代の大転換に身を以って体得することは出来なかったのです。福沢は幸運だったと思います。

長寿にして二生を経る

今は福沢の生きた時代と、寿命が大きく異なる条件となっています。福沢は66歳で亡くなりましたが、今は平均80歳を超え、百歳の人も大勢いる長寿の時代です。
日本人の多くはサラリーマンで、その定年は60歳。「改正高齢者雇用安定法」が4月1日に施行され、①定年制の撤廃、②定年年齢の65歳までの引き上げ、③定年後65歳までの継続雇用、この三つの選択肢が各企業で検討されているものの、大勢は60歳で勤め人から離れることが実態です。
ということは、定年後の生活が長期間になるということで、定年前とその後の二つの「生」を生き抜くことが必然となりました。時代の変化とは無関係に、多くの人は自分の人生を二つの「生」で生きなければならないという宿命にあります。福沢は時代の大変革によって、現代のサラリーマンは宿命によって、「一身にして二生を経る」を得ました。その背景条件は異なりますが、結果は福沢と我々は同じ環境になっているのです。

生き方基準

我々が長寿という宿命によって「一身にして二生を経る」を得たわけですが、では、この環境下で、どのような生き方が求められるでしょうか。生きる基準を、どのように持つべきかということです。
基準の一つとして考えられるのは「過去基準」です。サラリーマン時代との比較からこれからの自分の生き方を決めていく、つまり、いつも過去の生き方を参考にし、過去の延長で未来を考えていくという生き方です。
第二の基準として考えられるのは「業界基準」です。同じ勤め人時代を過ごした仲間との関わりを大事にしていく、つまり、同じような環境の人の生き方を参考に、自分の生き方を構築していくものです。
もう一つ考えられるのは「可能性基準」です。つまり、自らが宿命として得た二生の後半を、自らの中に隠れている可能性を探っていく生き方です。
どの生き方を採るかはその人の人生観で決めるもので、その結果の善し悪しは、その人が亡くなるときに、自分がどう一生の感慨を述べたかで明らかになります。

二生を経ることの前提構造

長寿によって獲得した「二生を経る」という期間、その定年後に生きる期間は、それまでの時間と構造的に異なっていることを理解しなければなりません。今までの経験が役立たない、未知の分野に入っていくことになるのです。
子ども時代の明日は必ず体の成長が約束され、体が育成されていく時代でした。大人になって過ごした壮年時代は、成長は止まりましたが、安定した体が充実した仕事をさせてくれました。過去の成長線上に自らの体が存在していました。
しかし、定年後に迎える長い期間は、体は成長せずに、返って肉体の構造上衰えていく期間に当たります。死という運命の終着点に向っていくという、やむをえない実態が続くのです。
だが、多くの人はその事実を理解せずにいて、何かの怪我や病気、事故が発生したときに、はじめて自らの体の衰え変化に気づき、その時に、過去とは体の構造が異なっている、今まで同じ生き方では難しくなっている、とはじめて理解することになります。
成長から安定へ、安定から衰え、弱化していく、その折り返し点が明確ではなく、加えて、一人一人の状況が異なる、つまり、同年齢でも健康個性がそれぞれ違っているので、同年齢の人の事例もあまり参考にならない、という実態にもなってくるのです。
ということは、生き方基準として申し上げた過去基準は、過去とは異なった体構造に向っているのですから、定年後の二生には適応しにくい、また、周りの人を参考にする業界基準も、一人一人の健康個性が異なっているので、難しいということになります。
結局、消去法によって第三の「可能性基準」が浮かび上がってきますが、これについては日本人特有の大きな一つの特徴を投げかけたいと思います。

変身ロマン願望

日本人が好きな歴史上の人物は1位が織田信長で、2位は坂本竜馬で、ここ数年変わっていません。特に坂本竜馬は司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」によって、若い女性の支持を多く受けています。竜馬は天保6年(1836)生れですから、山岡鉄舟と同じ歳で、清河八郎が結成した尊皇攘夷党の仲間です。同じメンバーとして政治活動をしたわけですが、鉄舟と竜馬の人気度は月とすっぽんです。格段の差があります。
司馬遼太郎の「竜馬がゆく」三巻で、竜馬が勝海舟を暗殺しようと赤坂の海舟邸に行き、返って海舟の弟子になってしまう情景が書かれています。海舟が地球儀を回して大英帝国の繁栄振りを説明し、日本と同じ海に囲まれた狭い国土なのに、海洋国家として外国との商売で利益を上げている。日本も開国し、航海貿易をし、製鉄所をつくり、軍艦を建造する等の日本興国論を滔滔と海舟が展開した時に、突如、竜馬が「勝先生、わしを弟子にして仕ァされ」と大きな体を平伏させた、とあります。暗殺にいったはずが弟子入りしてしまったのです。この場面、惚れ惚れするほど見事な文章展開です。感動します。竜馬が日本国に役立つ人物になったのは、海舟に出会い、海舟から指導教育を受けたときからスタートしたのですが、その場面情景をロマン溢れた文体で司馬遼太郎が描いているのです。
それまでの竜馬は剣術使いでした。それがこの時を期して日本を変える人物に変身したのです。一介の剣術使いがある時を期して質的変身を遂げる。この変身ロマン願望が多くの人に潜在意識としてあるからこそ、竜馬は人気があるのです。

可能性基準は地道な努力しかない

竜馬は脱藩して江戸で剣術修行に入った人物です。それがある時突然、剣を捨て変身し、亀山社中をつくり、薩長同盟を成し遂げ、明治新政府構想の船中八策を起案するのです。しかし、本当にそのような大変身が可能なのか。
それはありえないことだ、と疑問を投げかけるのは歴史作家の加来耕三氏です。本当は、子ども時代から秀才で、佐久間象山に学び、西洋事情に明るかったからこそ、海舟の内容を納得できたのだ。これが真実だと言い切ります。この見解に納得したいと思います。元々世界の事情に詳しかったからこそ、海舟の内容を納得したのです。地道に勉強努力をしていたのです。「竜馬がゆく」は小説です。過去を隔絶させる変身ロマンが必要だったのです。ここが大事なところです。
人間には変身はありえないという事実に立ち、日本人に宿命として与えられた「二生を経る」への生き方対応は、可能性基準によって生きることが望ましく、また、そのための前提は、地道なことに情熱を傾けて取り組むという平凡さ、それがその人に結果として質の高い非凡な生き方を与えてくれるという、事実に戻りたいと思います。以上。
(8月5日のレターは海外出張のため休刊となります)

投稿者 Master : 2006年07月22日 09:37

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