« ルールをつくれるか | メイン | 「この国のかたち」から見えてくるもの »

2006年02月19日

100%理論

YAMAMOTO・レター 環境×文化×経済 山本紀久雄
2006年2月20日 100%理論

プロという意味
知人から「温泉文献目録」をいただきました。早速開いてみると「笑う温泉・泣く温泉」が掲載されています。専門書として書いたわけですから当然ですが、温泉プロ鑑定者から専門書として認定されていることを確認できました。

二月五日のテレビ朝日「オイスターロードの旅」で「フランスを救った日本の牡蠣」がテロップで流れました。小さな文字ですから、気をつけなければ見過ごします。放映後、ディレクターからメールが届きました。「仙台地区の視聴率は10.2%、関東地区は5.8%、一番よかった視聴率場面は16.0%で、フランス・ブルターニュのマデックさんと森公美子・きたろうが話しているところ」との内容。マデックさんを推薦した手前、このメールに嬉しくなりました。提供した情報がお役に立ったことを素直に喜んでいます。テレビ局からマデックさんにDVDを送ったともあります。近々マデックさんに会いますので、話に花が咲くでしょう。
昨年出版の「ぬりえ文化」もそうですが、専門書を書くということは、一般的にその道のプロになったことを意味し、プロとして社会から認識されるわけです。
では、プロとはどのような存在者を意味するのでしょうか。タイミングよく、日経新聞にプロの定義が掲載されていました。(2006.2.9 大機小機)
1.高度な専門技術を有していなければならない。
2.専門技術を適応するに当たって、厳格な倫理観を有していなければならない。
3.すべての能力はクライアントでなく、顧客の利益のためにささげなければならない。
これはライブドア問題から提起されたものですが、日本では本来のプロフェッシォナル観念が希薄である、とも言及しています。
この三条件に該当する専門家であるどうかについては、忸怩たるものがありますが「思考を深めない、深く物事を考えない風潮の現代」では、世の中の出来事や情報を「ある立場から分析し整理」し、その内容をお伝えするということは、何らかの存在価値があり、必要なことであると思いますので、今後も専門書を書く立場からお伝えしていきたいと、改めて覚悟しているところです。

表面の背後にあるもの
不動産の達人「さくら事務所」の長嶋修氏が次のように語っています。
「売れる住宅とよい住宅は必ずしもイコールではない」「よい住宅とは、長持ちする、自然災害に強い、断熱性が高くエネルギー過剰使用でなく、維持管理がしやすい」なるほどと思います。また、売れる住宅は「内外装やシステムキッチンなど見える部分にお金をかけたもの」であるとも主張しています。これにも納得します。
これは文章にもいえます。「街場のアメリカ論」で内田樹氏が次のように述べています。
「腐る文章と腐りにくい文章があり、腐るというのを言い換えると経時的に汎用性がないということである」「メディアがもてはやす『切れ味のよい文章』はたいていの場合、『同時代人の中でもとりわけ情報感度のよい読者』を照準している。今から二十年前の読者や今から二十年後の読者のことなんかあまり考えない」この見解にもなるほどと思います。
本も同じです。売れている本とよい本が必ずしもイコールでなく、テレビでも視聴率の高い番組とよい番組とは別であるようです。
どの業界人も、ユーザーの求めるものを提供しようと、人々が持っている希望を探っています。ですから、ユーザーの嗜好を探ることに熱心で、結果的にユーザーに媚びることになる提案になりやすいのです。
しかしながら、ユーザーは本当のところで「自分に媚びてくるもの」よりは「プロとしての提案」「プロとしての見解」を欲しいのではないでしょうか。表面的な「かっこよさ」ではないものが提供される時代になっているように思います。

松井選手の100%理論
NYヤンキースの松井選手をテレビで見ました。松井選手に大リーグで活躍している秘訣をクイズ的に尋ねる番組でした。ピシッとした背広姿の松井選手が明確に答えます。
「基本的にトーリ監督の考え方と同じです。100%理論です。自分の力を100%出すことです」この答えになるほどと思います。自分の力を120%出すのでなく、また、80%でもない100%出すことが目的だと言い切りますが、これは大変なことであると感じます。それは、自分の力がどの程度あるかということを100%把握していないといえないことであり、仮に把握していたとしても、いつも100%出し続けるのは難しいと思うからです。そのところを松井選手が解説してくれました。
「そのためにまず行っていることは、過去の経験をしっかり記憶することです」「次に試合の日は毎日同じルーチン動作を続けることで、集中力に結び付けます」「この二つのことを継続することで目標を目指しています」
会場から質問がでました。「過去の経験を記憶しているということですが、○○号のホームランは何年何月何日でどの投手から打ちましたか」ちょっと時間をおいて正しい答えを発言します。会場がどよめきます。
次の質問は「毎日同じルーチン動作とはどのようなものですか」「それは試合前にロッカー室でおにぎり二個お茶を飲んで食べること、バッターボックスに入る動作がいつも同じであること」と答え、このルーチン動作は日本でもアメリカでも同じであると強調します。特殊なルーチン動作ではないことに会場がどよめきます。
100%自分の力を発揮させるために行っている二つのこと、この二つは出来そうですが実際にはかなり難しいと思います。しかし、その難しいと思われることを淡々と実現しているからこそ、ヤンキースで大活躍できているのです。

主観的に生きる
百歳以上の方について調べてみた特徴は「依存心をもたない」生き方であることを、健康クラブの例会で教えてもらいました。「依存心をもたない」を別の表現に言い換えますと「主体的に生きる」ということになると思います。また、「主体的に生きる」とは「自らの考えに基づき行動する」ということになり、それは「主観的な考え方」に通じ、自分の主観で行動するということは、自分本位の思考につながります。こう書きますと、一見「わがままな生き方」を追及するという意味に解釈されそうです。
だが、人生百歳も生きて元気なのですから、決して「わがままな生き方」だけではないと思います。何かのセオリーがあると思います。
横尾忠則氏という69歳の今でも旺盛な制作活動をしている人物がいます。横尾忠則という人物のイメージは、グラフイックデザイナーとして世に出、その後、画家に転進し、人生というマラソンコースを全力で疾走しながら息切れしない人と思っています。その横尾忠則氏が自らの生き方を次のように語りました。
「自分の長所も短所もひっくるめて知り、活用すると生きやすい。資質が社会に向かって開かれたとき、のびのびと仕事ができるのではないか。つまり、自分の性格に従うことであり、人生にはゴールがないと思うこと」と言い切ります。
これにもなるほどと思います。仕事の成果や死を気にしないで、自分の主観で行動することが社会から受け入れられることになるというのです。つまり、自分が好きなことで、自分の思うままに行動して、それが世間から受け入れられていくという意味です。
言い方を変えるならば「わがままな生き方」ですが、その生き方が受け入れられるというのですからその生き方内容は世間的に「わがままな生き方」になっていないのです。
ということは実は「社会の動きと自分の資質の間に違和感が生じていない」という意味になり、それは横尾忠則氏が描いている目標と今の時代との間に乖離が少ないということになりますので、自分の力を100%発揮できる状態におくことが生きるコツだといっているのです。

自分の能力を100%引き出して生きることは難しい。これが普通の人の考え方です。しかし、松井選手は100%理論を実行していますし、横尾忠則氏も同様です。この世で自分の姿を100%引き出せたら幸せと思います。すべての人は何かの分野で社会のお役に立つ能力を持っています。ですから100%理論を目指したいと思います。以上。
(次の三月五日号は、海外出張のため休刊いたします)

投稿者 Master : 2006年02月19日 11:02

コメント