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2005年08月21日

歴史は人が残す

  YAMAMOTO・レター 環境×文化×経済 山本紀久雄
       2005年8月20日 歴史は人が残す

最近の情勢判断

年に数回同じ居住区の人たちと食事会、ハイキング、旅行などをします。先日は暑気払という名目で、近くに新規オープンした焼肉店に行きました。安くてうまいと評判の店です。参加者は10名。女性が8名で皆さん中高年です。
最初の乾杯が終わって、差し障りのない雑談の後、市長・知事の評価、地元選出代議士の評価、次に郵政民営化について盛り上がってきました。皆さんテレビで問題点を把握していますので指摘はなかなか鋭く、なるほどと思うことが多々あります。それに対する見解を求められましたので、こちらの見解を述べましたら、真面目に聞いてくれたようです。

小泉首相による衆議院の解散によって、あっという間に事態が動き展開し、郵政民営化反対者は窮地に陥って国民新党ができたように、物事が極まってくると、結論がでるのが極めて迅速で、変化して行き、もはや元には戻らなくなります。しっかり時代を見たいと思います。世の中の出来事の背景を知ろうとしなかったり、無関心でいたり、目の前のことにしか気を配っていないと、遠くで起きている巨大な変化に気づくことができず、それがいつの間にか目前に関係してくることがわからず、明日も今日と同じだろうと漠然としていると、結局、後で後悔することになる。これが最近の情勢判断です。

官僚の嘘

日本道路公団の内田道雄副総裁と金子恒夫理事が、談合全般に関与した「正犯」に当たると東京高検に逮捕されました。この逮捕に至るプロセスはテレビでご存知の通りで、内田副総裁が談合組織「かづら会」なぞは知らない、新聞報道ではじめて知った、という鉄面皮な迷答弁に、質問者の猪瀬直樹氏が呆れた顔をし「嘘でしよう」と発言したのがきっかけで、とうとう今回の逮捕につながりました。一民間人の作家が官僚の嘘を引き出して逮捕につなげたのです。時代は変わったと思います。テレビという公開画面の中で、民間人の質問に官僚トップが平然と嘘をついている実態が放映されたのです。多くの人に官僚とはあういう人間なのかという、新たな恐ろしさを感じさせ、その官僚の収入が税金から支出されている、という事実に憤りを感じます。東京新聞の7月31日に、千葉商科大学学長の加藤寛氏が「悪臭は元から断て」と次のように寄稿しています。
 「道路公団の民営化のために七人委員会がつくられたのはよかったが、途中で内部分裂のため改革案がつくれなかった。そのとき、ジャーナリズムの論理は辞任した委員を高く評価したが、改革とはそんな格好よさを褒め称えることではない。泥にまみれても改革委員会を死守することである。今残っている猪瀬、大宅氏に非難の声はあるが、彼らの頑張りがついに内田副総裁逮捕を実現したではないか。公団及びそのファミリーの影を暴かなければ、改革の一撃を加えることは難しい。国鉄の場合もその暗部を国民の前にさらけ出したから世論の支持が得られた。単なる改革プランは夢として描くだけで解決にはならない。レントシーキング、たかり社会の元を断たなければ、表向きの改革の姿だけを幾ら提言しても改革案にはならない。その元とは財源の根拠を提供していた郵貯、簡保、年金の元を断つことである」と。

海舟の直感

月刊誌ベルダに山岡鉄舟を連載していますので、幕末の状況分析を通じ、江戸無血開城こそが日本を独立国家として発展させたスタートであったと理解しています。
その江戸無血開城は慶応四年(1868)3月14日、田町の薩摩邸における西郷隆盛と勝海舟の間で正式に決定しましたが、実際には鉄舟が駿府にて西郷と会見交渉し、事前に事実上決めていたのです。
ということは鉄舟こそが独立日本を創りあげた功績者です。だが、この鉄舟も官軍が充満している東海道筋を突破して、駿府に辿りつくためには独りでは無理で、官軍の中を通り抜けられる武器が必要でした。それが薩摩藩・益満休之助でした。薩人の益満が鉄舟に同行してくれたからこそ、官軍の中を走破でき西郷と会見・交渉できたのです。
では、誰の指示で益満を鉄舟に同行させたのか。それは海舟です。海舟邸に前年末の薩摩藩焼き討ちの折幕府に捕らえられ、死罪となるはずの益満がいたのです。鉄舟が将軍慶喜の指示を受け、海舟邸を訪れる3日前に牢屋から引き取った、という図ったようなタイミングでした。海舟と鉄舟はそのときまで面識がありませんでしたし、鉄舟が慶喜の指示を受けたことも海舟は知りませんでした。しかし、益満を対官軍工作員として準備しておいたことが、鉄舟の功績を引き出し、これが江戸無血開城を成し遂げさせたのです。益満を牢屋から引き取ったタイミング、その海舟の直感力が歴史を創り上げました。

直木三十五

この益満休之助という人物を、主人公に取り上げて書いた作家が直木三十五です。
直木賞として冠を称せられている作家です。殆どの人は芥川賞が芥川龍之介であることは知っていますが、直木賞が直木三十五の業績を称える趣旨から設けられた賞であることを知りません。
直木三十五は明治24年(1891)大阪生まれ、早稲田大学に進むものの、関東大震災後に関西に戻り、雑誌「苦楽」の編集などに従事。再上京後は次々と著述をあらわし、昭和5年(1930)に新聞連載がスタートした「南国太平記」で一躍人気作家になったが、昭和9年(1934)結核性脳膜炎のため43歳で没しました。
このときの直木三十五の死に対して、多くの追悼が寄せられましたが、その多さでいえば、空前とも絶後ともいえるほどで、新聞は勿論総合誌、文芸誌など、かなりのページをさいて追悼特集を組み、「衆文」のように全誌をあげて追悼号とした雑誌もありました。
そのなかで菊池寛は「直木は大衆文学者といわれたが、彼の本領は一個の大歴史小説家である。彼出でて初めて日本に歴史小説が存在したといってよい。彼は荒唐無稽な筋書きによって舞文するのではなくして、歴史的事実に立脚して、その事件と人物とを、彼の豊富なる想像と精鋭な描写とによって、生かしているのである」と激賞しています。
確かに、図書館から「南国太平記」を借りて、夏休みに読んでみましたが、お由良騒動といわれる島津家のお家騒動を素材に、薩摩藩の幕末回天史を描いた長編であって、内容のポイントとなる場面は史実に基づいていることが分かり、益満休之助も登場し「鳥羽伏見の戦いの後、江戸に潜入した益満は、幕兵に正体を見破られ捕らえられ、勝海舟に助けられ、西郷との下交渉に働く」と、その姿が描かれています。
司馬遼太郎など名だたる作家が受賞している、大衆文学の登竜門としての「直木賞」は、直木三十五の業績を称えることから制定され、文壇歴史にその名を刻んでいます。

絵本の歴史

今月末に「ぬりえ文化」を出版します。ぬりえについては専門研究書がありませんので、日本でも、多分、世界でもはじめての専門書として各分野で活用される存在になると思います。といいますのも、2003年に出版した「フランスを救った日本の牡蠣」が牡蠣業界では専門書として活用されている事実を、先般の「国際牡蠣フェスティバル」で確認できたからです。今回の「ぬりえ文化」も関係する人々から受け入れられると期待します。
ところで、ぬりえを研究する過程で絵本の成り立ち・歴史についても分かりました。
「絵本の歴史は1844年にフランクフルトのお医者さん、ハインリッヒ・ホフマンによってつくられました。一人息子のクリスマスの贈りものとして、ホフマン先生が息子のいたずらや失敗を、自分で描いて、詩をつけて、一冊にとじて息子に贈りました。それを友だちや、その親たちが愉快がり、知り合いの出版社が乗り気になって石版技術で出版しました。それまでのかた苦しいお説教調で宗教画の安本を圧倒して、ぞくぞく版を重ねました。これが絵本のはじまりだったのです。この結果、ホフマン先生は医者ということは忘れ去られましたが、絵本の著者として人名辞典に残り、この絵本は絵本の古典となりました」と瀬田貞二氏の絵本論にありますように、ホフマンさんから始まったのです。

道路民営化委員会での猪瀬直樹氏の働きは、作家としてよりも道路公団民営化の歴史に名を残すでしよう。幕末、海舟が時の誰よりも国際情勢を的確に分析し、日本が分断されないように動いた一環として益満の手配があり、それによって鉄舟が働いたことで歴史を創りました。直木三十五も菊池寛によって直木賞として文壇の歴史を創りました。ホフマン先生も絵本の歴史を創りました。衆議院解散による9月11日の選挙結果で、郵政民営化を成し遂げるかどうか。小泉純一郎の名が歴史として残るかどうかが決まります。以上。

投稿者 Master : 2005年08月21日 10:58

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