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2005年05月22日

武士道と愛知万博

        YAMAMOTO・レター
     環境×文化×経済 山本紀久雄
   2005年5月20日 武士道と愛知万博

イラクで働いていた

前回レターでお伝えしたハローワークでの「イラク求人広告」、その際に「イラクに行けば金になると世界から様々な人が危険を承知で、傭兵とか、土木関係の作業員として集まっていている」ともお伝えしました。それが5月5日のレターで、その4日後の5月9日にイラクの武装組織「アンサール・スンナ軍」が斉藤昭彦さんを拘束していることを伝え、イラクに日本人がいることが判明しました。
斉藤さんはイラクで英国系警備会社ハート・セキュリティ社に勤めていて、それまでの経歴は自衛隊と、フランス外国人部隊に傭兵として長く所属していた「プロの軍人」です。今でもフランス外国人部隊には40人の日本人がいるそうです。
世界で最も危険な地域のイラクに世界中から人が集っていて、その一連の動きとして長崎ハローワーク「イラク求人広告」もあったのだ、と改めて理解しているところです。

新渡戸稲造の武士道

新渡戸稲造の「武士道—日本の魂」が出版されたのは1900年で、この本を書いた動機を、同書の中で以下のように説明しています。
「約十年前、ベルギーの高名な法学者、故ド・ラヴレー氏から『日本の学校には宗教教育はないと言うことなんですか』と、尋ねられた。私が『ありません』と答えると、すかさず、教授は『宗教なしとは! 道徳教育はどうしてほどこされるのですか?』私は即座に返答できなかった」と。
しかし、武士道を書くに至った本当の「動機」は、別のところにあったのではないかと推測します。当時の日本の状況から考えたいのです。明治維新後わずか二十数年で大国清国に勝利した日本、世界から「野蛮で好戦的な民族」とみられ誤解されていたと思います。外国にいた新渡戸稲造にはそれを直接肌身で感じ、心配し、正しく日本人の姿を伝えなければいけないと思ったはずです。
といいますのも、新渡戸稲造の武士道は、江戸時代に明確化された武士道ではないのです。武士道というタイトルですが、武家社会だった江戸時代の武士道ではなく、日本人の精神基盤にある「普遍的な倫理観」、それを武士道として表現し、それを世界に日本人の精神構造として知らしめたのです。
更に、また、同書の最後に次のように書いてあります。
「<武士道>は独立した倫理の掟としては、消え去るかもしれぬ。しかし、その力はこの地から滅び去ることはないであろう。武人の勇気や公民の名誉を教えるその学院は、破壊されるかもしれぬ。しかし、その光とその栄光は、その廃墟のあとまで長く生きのびるであろう。・・・(中略)・・・幾世をも経たのち、その慣例は埋め去られ、その名さえ忘れ去られても、その香りは、『道ばたに彼方を見つめれば』、はるか彼方に目に見えぬ丘からのように、空をただよって来るであろう」と。
つまり、日本人のDNAには、武士道精神が奥底に基盤として存在しているので、決して忘れ去ることがないモノである、と最後に書き残しています。

武士道の二つの側面

武士道研究家の第一人者である笠谷和比古教授(国際日本文化研究センター)は、著書(武士道その名誉と掟)で武士道の二つの側面を述べています。
「武士道の一つの側面は『忠義』の観念で、それは『主君−家臣』というタテの関係である。もう一つの側面は『名誉』の観念で、これは個々の武士の『武士としての自我意識・矜持』としてのヨコの関係として存在する」と。
この二つの側面を今の時代に当てはめ、会社組織に例えていえば「忠義」は社長・上司との関係、会社の組織一員として働く立場からは「名誉」を「人間としての規範・矜持」として理解できます。
新渡戸稲造の武士道は、この二つの側面の「名誉」を中心ポイントに取り上げているのですが、それは、書いたときが封建時代が終わった明治時代ですから当然で、このヨコ関係としての「名誉」、現代風にいえば自らが持つ「志・大義・理念・良心」等の、自己の内部に存在する「人間としての規範・矜持」が最も大事と考え書いたのです。

「愛・地球博」愛知万博に行こう

3月25日に開幕した愛知万博は当初不振でした。入場者目標1500万人、これを開催日数で割りますと、一日平均8.1万人の入場者が必要です。
開幕して最初の土曜日は4.6万人、日曜日は好天でしたが5.7万人、万博事務局の計画は15万人でしたから、三分の一の達成率でした。これで先行きを心配していたのですが、5月19日現在で462万人、一日平均8.4万人となりました。
イベント等にみられる一般的な動員傾向は、立ち上がり当初が好調ですと、それを引きずって後半も順調に行くので、愛知万博当初の不振は今後に懸念を生じさせました。
ところが、ここに来て、ジワッと集客力が高まってきました。爆発的な人気、すごい目玉的な存在、それが見当たらないのに会場に人が集まりだしたのです。
その要因として、既に何回も万博に行き、会場の状況に詳しい人からお聞きしますと、「従来の万博とは異なっている」と明確に発言します。
多くの人は大阪の万博、1970年ですが、この高度経済成長途上の万博残像を持っていて「何か面白くて目立つもの」があると思い、実際に愛知万博に行ってみると、結果は「従来の万博とは異なっている」と一様に発言するのです。
愛知万博は「環境がテーマ」であることは誰でも知っています。ですから「環境にやさしい万博だろう」程度で行くと、そこには「ポスト環境」ともいうべき技術やビジネスモデルが並んでいて、そこで時代は新しい21世紀に入っていることを感じ取るのです。1958年のブリュッセル万博は「核技術」がテーマでした。原発によってエネルギー問題が解決されれば、世界はハッピーになるという発想だったのです。その当時はそれが最先端時代感覚だったのです。今では誰もそう思わない、考えられないテーマだったのです。前回のハノーバー万博テーマは「人・自然・技術」という三者の集大成、つまり、20世紀最後のハノーバー万博は環境技術の総まとめでした。
しかし、21世紀最初の愛知万博は「自然の叡智」がテーマとなり、ハノーバー万博テーマから「人」と「技術」が消え、残ったのは自然であり、その叡智だというのです。
この叡智とは何か。それは具体的に明確には分からないまでも、現在の環境問題への対応状況では、地球世界が危ないという意識と共に、次の新しい「安全な世界物語」の創造が必要である、という感覚が日本人には分かっていて、その内面下意識の顕れ、それがこのところジワッと集客が増えてきた理由ではないかと推察しているところです。

都電が懐かしい

ぬりえ美術館に取材で来るマスコミ、その人たちが一様に語るのは、都電とぬりえのミックスが時代感覚に合っているということです。走る車の邪魔になるからと、都電を廃線にしてきた日本の各都市、今になってみれば都電が残っている街並みを高く評価するのです。香港からも都電とぬりえの視察に来るほどです。路面電車は車の邪魔で「もはや時代遅れ」だと、渋谷の玉川通りの坂道を上っていた「玉電」と、御徒町昭和通りの都電を消した発想は、1958年のブリュッセル万博の「核技術」をテーマにしたことと同じです。市電を残し、郊外まで延伸活用しているドイツ・カールスルーエに世界中から視察に行くのは、当時の考え方が問題であったと分かり、昔がよかったと懐かしむ気持ちからです。人が本来持っている「自然感覚」が戻ってきつつあると思います。

万博は世界の方向性を示している

日本人は、その精神基盤に存在した武士道精神を忘れ、経済優先で走ってきました。だが、「その名さえ忘れ去られても、はるか彼方に目に見えぬ丘からのように、空をただよって来るであろう」と最後に新渡戸稲造が書き残した武士道精神は、我々のDNAに残っているはずです。愛知万博は20世紀に破壊し苛め抜いた地球環境、それを人間の持つ「志・大義・理念・良心」から発した「自然感覚」による「叡智」で組み立てなおすことがテーマです。忘れ去られた武士道精神が「はるか彼方からただよってくる」のと同じく、「彼方に見え始めた安全な世界物語」を求め始めだした日本人を愛知万博へ向かわせ、その人達によりジワッと集客力を高めてきているのではないでしょうか。以上。

投稿者 Master : 2005年05月22日 12:06

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