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2005年05月06日

時代の中での判断基準

      YAMAMOTO・レター
   環境×文化×経済 山本紀久雄
  2005年5月5日 時代の中での判断基準

イラクで働かないか

イラクで働かないかという求人広告が、ハローワークに出たと赤旗新聞(2005.3.28)が報道しました。長崎のハローワークで、地元の会社が求人票を出したのですが、元請がどこかは分かりません。給料は二週間で50万円で、渡航費用は全額支給です。二週間経って求人票は消えましたが、応募した人がいたそうです。
朝のNHKラジオに時折登場する経済評論家の藤原直哉氏によると、イラクに行けば金になると世界から様々な人が危険を承知で、傭兵とか、土木関係の作業員として集まっていているそうです。今回応募した日本人はお金が目的か、それとも別のものがあったのでしょうか。

東京駅前郵便局

郵政民営化が大詰めを迎え、もうすぐに決着がつくと思いますが、いつも不思議に思っていることがあります。東京駅前の中央郵便局のことです。
先般、ドイツのカールスルーエに行き、街中を歩いていて疲れたのでカフェで一休みしようと、店がたくさん集まっているビルの中に入りました。入り口を入るとすぐの左側片隅に郵便局がありましたので、地元の人に「ショッピング街の中に郵便局があるのですね」と尋ねますと「ここはもともと中央郵便局でしたが今はショッピング街に変身したのです」という答えです。郵便局は片隅で全体の10分の一にも満たないスペースになり、内部改装し、郵便局がビル所有者でテナントとして多くの店が入ったのです。場所は街中の一等地ですから、市民が大勢立ち寄って買い物・飲食を楽しんでいます。
同様なことが東京駅前の中央郵便局でも、できないかということです。東京駅前に中央郵便局をおいた発想は鉄道で配達する時代のものでした。
今は状況が変わっていますし、東京駅前は車が多く、一流企業が集積する一等地ですからいつも渋滞しています。また、回りを見れば東京駅丸の内界隈は再開発で大変化しているのですから、中央郵便局敷地評価額1600億円を効果的に活用してもらいたいと思っています。同様に全国各地の一等地に所在している郵便局が、民営化されれば素晴らしい改革変化ができるはずで、民営化後に期待したいと思います。

尼崎脱線事故

JR西日本の尼崎脱線事故は悲惨でした。通勤列車でしたから多くの被害が発生し、改めて交通機関の怖さを感じました。
その加害当事者であるJR西日本の幹部の対応が厳しく問われています。事故後の記者会見での迷走や、被害者・家族への対応、社員の事故当日親睦ボーリング大会の開催と飲み会、全く常識を欠いた行動です。幹部への批判として代表的な事例は「用意された文章を読み上げて謝罪した垣内社長」です。このずれ込んだ感覚差はどうしようもありませんが、問題なのはこのような感覚の人がトップになっているという事実です。
企業幹部となっている人たちとは、ある目的をもった一つの組織の中で、多数の人と競争し生き残って階段を上がることができた、という人種です。ですから、ある意味での企業論理・常識を十分持ち、それを駆使した行動をしてきたからこそ、幹部になれたのです。
企業にはその会社の社風を含め、ある基準が存在します。一般社会とは異なった基準と考えてよいと思います。その社風・基準にうまく合格した人たちが幹部であり、それが企業内部では成功といわれる人たちなのです。ですから、企業感覚には優れているが、そこで上手に適応することで生きてきたために、普遍的な感覚を失いやすいというデメリットがあります。これがJR西日本の幹部に見事に発揮されているのです。

生活環境と生活習慣

「諸法無我」という言葉があります。広辞苑によると「いかなる存在も永遠不変の実体を有しない」とあります。この意味を「物事の実体と本質は、その物事の回りに存在する関係で決まる」と解釈しますと、我々が現在持っている常識感覚の内容は「自分の回りを取り囲む生活環境と生活習慣によって決まる」と理解できます。
イラクへ働きに行くことに応募した人、それはその人が持っている生活環境と生活習慣によつて、つくり上げられた考えから判断したと思います。
東京駅前の中央郵便局、前をみればオアゾという新しいエキサイティングなビル、左側をみれば再開発された丸ビル、その隣は現在再開発中の新丸ビルがあり、東京駅周辺はすごいスピードで変化しているのです。変わらないのは中央郵便局だけで、変わらない理由は郵便局に存在している生活環境と生活習慣からです。
事例としてあげるのも嫌なのですが、悲惨な事故に対する対応感覚のずれたJR西日本幹部達、これもJR西日本の中に存在する生活環境と生活習慣からです。

山岡鉄舟

この連休は月刊ベルダ誌に、山岡鉄舟の連載第一号を書くために費やしました。雑誌の連載ですから各号ごとの字数は制限されていますので、実際に書上げる時間はそれほどかかりません。しかしながら、改めて山岡鉄舟物語を書くという意味を考え、その考えをどのように組み立てるかというところに精力を費やしたのですが、結局、それは山岡鉄舟という稀有な人材を自分の常識で判断し、書き著すしかないと気づいたのです。
ということは、山岡鉄舟という人物を語るということを通じて、自分がいつも何を想い、どのような生き方をイメージし描いているか、そのことを幕末明治維新史という歴史舞台を通じて表現することになるのです。これはとても怖いことです。自分の考えと常識を、世間という広い一般社会に、雑誌という公共的媒体で発表するということ、つまり、自分の生活環境と生活習慣を発表することになるのです。

ぬりえ文化

山岡鉄舟を書く直前まで「ぬりえ文化」を書いていました。一応書上げ秋に出版となりますが、これも苦労しました。理由は「ぬりえ」ということを描いた経験、少しはあったとしてももうかなり昔の幼いときの思い出しかない、そのぬりえを「文化論」と論じていく。これは難しいことだと感じていたからです。
「ぬりえ文化」を書こうと思ったのは数年前からです。東京都荒川区に「ぬりえ美術館」が設立されたのが三年前、その設立構想段階から参画していましたので、ぬりえを「文化」にする必要性は感じていました。そこで、いずれ取り上げたいと思っていましたが、そのキッカケ・切り口が見つからなく数年過ごしたのです。
書くキッカケ・切り口が見いだしえなかったのは、自分の中にぬりえに対する感覚と常識が欠けていると認識していたからです。しかし、常識が欠けているのならそれをつくりあげればよいのだ、と思い直したときから楽になりました。
様々なところから資料を集め始め、整理し分析しているうちに、ようやく頭の中に構想が浮かぶと共に、金子マサ館長という共著者の協力もあり、ようやく連休前に書上げられたのです。ずい分時間がかかりましたが、終わってみれば子どもの遊びであり、子どもが楽しみに描くものですから、そのところを素直に捉えて、自分の常識からぬりえを捉えればよいとおもったときから書き出せたのです。よい経験になりました。

時代の中での判断基準

連休中にも「ぬりえ美術館」にマスコミ取材が多くありました。マスコミの関心は「ぬりえ美術館」の近くを通る都電、それが今人気なので、都電とぬりえを結びつける企画で取材にくるのです。昔は路面電車が多くありました。渋谷の玉川通りを走っていた「玉電」、御徒町を走っていた「都電」、これらを消したのは日本の戦後の「もはや路面電車は時代遅れ」という交通政策で、消した後を首都高速道路の高架で覆ったのです。
ところが、すでに紹介したカールスルーエの目抜きカイザー通りは、人と電車しか入れないショッピングモールとなって、人と電車の共存が実現しているのです。日本は電車を消し、ドイツは残しました。同じ敗戦国でも判断基準が異なりましたが、今になってみれば日本人の多くは都電を懐かしく求め始めたのです。この感覚のずれが怖いのです。そのときの政策推進者の常識感覚と判断基準が社会をつくりかえていくのです。
山岡鉄舟は誰も見通しのつけられなかった巨大な歴史的課題に、徒手空拳で立ち向かい、結果的に時代を見通した判断基準で、新しい明治維新という姿を実現させたのです。以上。

投稿者 Master : 2005年05月06日 11:22

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