« 2008年8月5日 予測に必要なセンチメント感覚 | メイン | 10月例会の予定 »

2008年08月20日

2008年8月20日 ロールモデル

環境×文化×経済 山本紀久雄
2008年8月20日 ロールモデル

東条元首相の手記

太平洋戦争開戦時の首相である東条英機陸軍大将が、終戦直前に書いた手記が国立公文書館で見つかり、その昭和20年8月13日に「戦いは常に一瞬において決定するの常則は不変なる」と書いています。これと全く同じことを開戦前にも発言しています。

それは昭和16年4月、当時の近衛内閣が「もし日米戦わばどのような結果になるか」を検討し、結論は「緒戦は勝つであろう。しかしながら、やがて国力、物量の差、それが明らかになって、最終的にはソビエトの参戦、こういうかたちでこの戦争は必ず負ける。よって日米は決して戦ってはならない」でした。

だが、東条陸軍大臣は「この結論は、まさしく机上の空論である。日露戦争も最初から勝てると思ってやったわけではない。三国同盟、三国干渉があってやむを得ず立ち上がったのである。戦というのは意外なことが起こってそれで勝敗が決するのである」と発言し、同年10月に東条内閣が成立し、12月8日の真珠湾攻撃となったのです。

開戦前も、ポツダム宣言受諾後でも、同じことを述べていますので、これは東条元首相の信念と思いますが、明らかに戦争に勝利するための信念・思考力ではありません。

戦争ですから「意外なこと」が多々発生するでしょう。しかし、戦争とは国家の総力を挙げた、国の基盤同士の戦いですから、時間の経過とともに基盤力が表出し、「意外なこと」ではなく「力どおり」の結果になっていくのです。

ロールモデルのシフト

 山岡鉄舟の研究を通じ、幕末維新を検討していく過程で気づいてきたことがあります。それは、嘉永6年(1853)6月にペリー提督が浦賀に来たとき、これを切っ掛けにして、日本はそれまでの「ロールモデル(あこがれの対象)」を中国・清から欧米に切り替えたのではないかということです。

 それまでの日本は中国という大国を見習ってきました。文字でも、儒教でも、詩文でも、すべての基盤思考は中国で、そこに独自色を如何につけるかで、国家のアイデンティテイをつくりあげて来ました。

例えば、寛永18年(1641)に完成させた鎖国です。これは日本独自の政策と思っている人が多いのですが、すでに明と清が鎖国政策を採っていたことが、関係していないはずはありません。

仮に、清がヨーロッパ諸国と広く交易を展開していて、ヨーロッパの文物を採り入れた近代国家であり、豊かな国であった場合でも、日本は国内政局を理由として鎖国を完成させたかどうかです。清がヨーロッパ諸国と上手に付き合っていたならば、鎖国ということは考えなかったのではないでしょうか。逆に清を見習って、ヨーロッパと積極的な関係になったと思います。

日本の歴史書には明と清の鎖国政策との関係がふれていない場合が多いのですが、隣国の清が海禁政策を採っていなかったならば、徳川家光は果たして鎖国を断行したかどうか疑問です。

アメリカを採り入れた

 ところが、この清がアヘン戦争、アロー戦争、太平天国の乱によって、凄まじく瓦解する状態を知った幕末の日本の政治指導者は、「日本は清と同じ運命になるのでは」という恐怖心と危機感に襲われ、もう清をロールモデルにはできない、どうすればよいのか、とういう事態に陥ったと思います。

まさにそのとき、ペリー提督が浦賀に来たのです。おそらくこのタイミングに、日本は千年来のロールモデルであった中国を見限り、欧米をロールモデルに選び、シフトさせたのです。そう考えないと、明治時代の「脱亜入欧」を理解できません。

明治4年、まだ江戸時代の名残が深く、落ち着いたとはいえない時期に、右大臣岩倉具視を大使として、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳の4人を副使として、総勢50人に及ぶ大使節団を、欧米に派遣しました。内閣の主要メンバーが、2年間も一斉に日本を離れるということ、それはロールモデルを中国から欧米へとシフトさせたことの行動であり、その延長線上に今の日米同盟関係があると考えます。

世界の動向

 先般の洞爺湖サミットでは、地球温暖化や石油・食糧価格の高騰などの問題に対し、先進国だけでは解決策を提示できないという事実、それは参加国がG8とEU委員長を中心に、招待国を含め23カ国に及んだことで分かります。また、ジュネーブでの世界貿易機関(WTO)閣僚会議も、アメリカとインドの対立で結論を得ないまま頓挫しました。

 これらの事実は、新興勢力の台頭で、アメリカ中心に先進国が築いてきた秩序が崩れ始め、世界の勢力バランスが確実に変化していることを証明しました。

さらに、北京オリンピックの開催時期に、ロシアとグルジアが軍事衝突を起しました。ようやく8月16日に停戦合意が署名されましたが、ここで分かったことはロシアとアメリカの関係です。原油をはじめとする資源高を追い風に、ロシアが大国として再登場しようとする意図の紛争に対し、アメリカは初動対応が遅れ、代わってEUを代表してフランスのサルコジ大統領が調停役を務めたのです。

紛争が少し落ち着いたあたりから、アメリカはサミットからロシアを排除しろ、2014年の冬季オリンピック開催地をロシアのソチから変更させろ、というようなロシア非難を強く始めましたが、どうも犬の遠吠えのような感で、明らかにアメリカ中心の時代に陰りが出ていると感じます。

これからの大国はどこか

 2007年度のGDPはアメリカが13兆ドル超で世界一、次にEUを除けば日本で4兆ドル超、中国は3兆ドル超です。しかし、中国の人口13億人はこれからも増えていくはずですから、現状様々な問題があっても、全体では成長していくと多くの識者が指摘する通り、数年後には中国が日本をGDPで追い抜くと思います。

といっても、中国がアメリカを抜いて世界一になると予測するのは早計ですが、世界での地位、重要性は今より格段に強くなっていくでしょうし、そこに資源大国ロシアが絡んでいくと考えられます。

 これに対し、日本は明らかに人口減が始まっていますので、今までとは異なった方向での国家戦略、それはアメリカとの関係見直しを含めた新たな検討が必要となっています。

躁から鬱へ

作家の五木寛之氏が次のように語っています。(日経新聞2008年7月30日)
「僕の言う『鬱』は個人の病気や、短期的な社会の気分ではない。もっと大きな社会の流れとして実感している。日本は高度成長や万博、オリンピックに象徴される『躁の時代』を終え、バブル崩壊後10年の低迷期を経て、今『欝の時代』を迎えたと考えている。

 身の回りを見ればすべてが鬱の様相を呈している。がむしゃらに働いたり、遊んだりする躁の生活様式に対し、ロハスやスローライフは鬱のそれだ。エネルギーを消費せず限られた資源でやりくりしようというエコロジーも鬱の思想。予防を第一にするメタボは鬱の医学だし、敵が見えないテロとの戦いは鬱の戦争といえる。躁が50年続いたのだから、鬱も50年続くとみるのが自然だろう」と。

なるほどと思います。

ロールモデルを自分の中からつくる

 「アメリカ中心の時代」が陰ってきたことは、日本がアメリカをロールモデルとした時代の終わりを示しだしていると思います。そこで、過去を見習い、次のロールモデル国を探すかですが、それは現在の日本の立場と国際情勢からありえなく、新たなる方向性を見いだすしかないでしょう。

日本は、今その岐路に立っていますが、それは企業も人にもいえる課題です。躁の時代が終わって、欝が長く続く時代に変わったのに、躁の時代に成功した方策を、相変わらず続けていると、時代に合わないのですから、次第に企業実態は悪化し、個人は苦しい環境下になっていくでしょう。

新たなるロールモデル探しが必要です。また、それは、時代の変化・時流に合致した、生き方基準探しともいえ、信念づくりともいえますが、この作業は自らの基盤的なものであって、時代と自分の両方に適合したものでないと、東条元首相と同じ失敗となります。

多分、そのヒントは自分の中に存在する「好きなこと」「得意なこと」を探すこと、つまり、自分の奥底へ向う探検の旅であり、その事へひたむきな努力を続けることであり、また、その努力過程を楽しみにすることであろうと、変化した時流が教えてくれています。以上。

投稿者 Master : 2008年08月20日 06:18

コメント