« ワイポイントレッスン 2006年6月19日 | メイン | 9月の例会の予定 »

2006年06月22日

2006年6月20日 分からないが判断基準

YAMAMOTO・レター
環境×文化×経済 山本紀久雄

今年の梅雨
NHKテレビニュースで中国の一人当たり水消費量は、日本の四分の一であると報じていました。その点、日本は水が豊かで、今日も梅雨の雨が降っています。これを恵みの雨と思うか、それとも昨年に比較し雨が多く、日照時間が少ないと判断するか、それはその人によって異なりますが、ある人は「今年の天候不順は、江戸時代の天保の大飢饉時に似ている」と言い「天候不順な時は農薬の使用量が増える」とも言っています。

確かに天保の大飢饉は七年間に渡って発生しています。しかし、この大飢饉で日本全国がすべて「食べられなかった」のかと言いますと、そうではなく当時は幕府領と藩領によって為政者が異なっていましたから、そこの政治によってずいぶん被害状況に格差がありました。また、江戸時代は多雨、干ばつ、冷期が多く、ある人に言わせると「江戸時代は異常気象の方が多かった」とも指摘しているほどです。
ところが、この異常気象が多かった江戸時代に、米に生産が飛躍的に伸びた事も事実なのです。江戸時代の初期には千八百万石だった生産高が、天保時代には三千万石に増えているのです。米の生産が増えたということは、この時代は平和であり、人口も増え、耕地面積も伸びたことを意味し、これは農民の働く意欲が高まっていたとも解釈できるのです。 今年の梅雨状況から天候不順と断定するかどうか、それは各人の判断によって分かれます。

ワールドサッカー
日本はオーストラリアに負け、クロアチアと引き分けました。戦前の予想では日本はオーストラリアには勝って、予選は突破する見込みでした。だが、これはかなり難しくなりました。今年の3月、ロンドンのブックメーカー(公認賭け屋)で、ワールドサッカー国別掛け率を聞きました。以前にお伝えしたと思いますが、その時点でブラジルがトップで3倍、ドイツとイングランドが6倍、イタリア・フランスが7倍、クロアチアは50倍、オーストラリアは150倍でした。では日本は何倍か。それは125倍から250倍の間で動いていました。予選F組の中では日本が一番低いのです。
しかし、今月のFIFAの世界ランキングでは、1位は勿論ブラジルですが、クロアチアは23位、オーストラリアは42位で、日本は18位なのです。F組の中でのランキングではブラジルに継ぎます。どちらの評価ランクを採るか。それは人によって異なり、日本人として日本チームを高く評価したいのですが、いまのところロンドンのブックメーカー倍率が示す結果です。

人は何を基準にして判断するか
我々は常に判断をしています。目の前に現れる出来事を判断し続けています。また、その判断は自分の中に存在する、何かの「ある基準」で決めています。その「ある基準」とは自分の原体験を基に、そこに今までの人生経験や環境条件を加味しているものではないかと思います。つまり、自分の体験と場数の積み重ねによって、一人一人が何らかの判断基準を持っているのです。
しかし、この判断基準を多くの人は明確に把握していないから厄介です。通常、目の前に出来事が現われたとき、多くの人は直感的に行動することで、物事への対応をとっています。よく考えて行動しろ、などと言われても、実際は直感で判断しています。また、直感で判断しないとスムースな行動はできなく、日常生活は支障を起こしかねません。ですから、日常生活は直感の連続行動になっています。
しかしながら、直感で行動しているのですから、その直感行動する自分の内部には、何かの基準があるはずです。何もないのに直感行動はありえません。一人一人異なった判断基準が存在しているのです。

社会の共通概念
一人一人行動する判断基準が異なっているのですが、一方、社会にはこれを規制する共通概念が広く強く存在しています。
例えば、お腹が空いたとします。しかし、自分は空いたが隣の人がお腹を空かしたとは限りません。また、お腹が空いたとしても昼食時間にならないと、自分勝手にはなかなか食べられません。文明社会では昼食は12時というある規制が世の中に習慣化され、それに基づく共通概念が染み渡っています。社会の共通性概念にしたがって行動しないと、人間関係は壊れていきますから、一人一人の判断で勝手に行動できないシステムになっています。このレターはパソコンで書いています。パソコンに向うのは一人一人異なる個性ですが、向かい合っているパソコンはある一定の基準で規制され、作られているものです。ある人独自のパソコンがあったとしますと、そのパソコンを使って多くの人とメール連絡は不可能ですし、インターネットで様々な情報を入手できません。
つまり、パソコンは世界共通に規制された概念で作られているからこそ、多くの人と情報連絡でき、そうであるからこそ多くの人から活用されるのです。あるキーを誰が叩こうとも、その打たれたキーは同じ結果を示すから、パソコンは多くの人に役立つ存在になっているのです。それが同じキーを叩いて、結果が人によって異なるとしたら、この便利なパソコン社会・IT社会の隆盛はありえません。
ですから、社会には人々が共同して生活するための、共通概念が広く強く存在していて、それにしたがって行動していくことになります。

共通性概念の問題
社会生活を送っていくためには、この共通性概念を大事にしないといけません。しかし、この共通性概念だけを意識し、大事にし、守って行動していくとどうなるでしょう。共通性概念とは多くの人に当てはまるものですから、多くの人と同じ行動となり、多くの人と異なる行動は採らないということになります。社会が決めたことという暗黙のルールに従って行動する人間となります。それはどういう人間でしょうか。それは個性のない人間ということになります。人は生れたときから個性が一人一人異なっているのですが、その個性を発揮しないで社会規範ともいえる共通概念だけで行動していくと、最後には自分という存在、他人と自分がどのように違うのかということが分からなくなり、結果的に社会不適合になりやすいといわれています。
これは自閉症の発症が始めてアメリカで報告されたのが、1943年であったということからも推察できます。アメリカの児童精神科医が「従来の報告にないユニークな状態を示す一群の子どもがいる」と発表したのが1943年でした。その12年前の1931年に、テレビが始めてアメリカ社会に登場しました。テレビとは「情報が片側からの一方通行で、こちらからはコミュニケートできない」ものです。そのテレビの前に幼児を置いたままにしておくとどうなるか。正確には解明されていませんが、このテレビの普及と自閉症はパラレルになって発生したと言われています。テレビとは何か。それは強い刺激で、繰り返しが強力に行われるものです。その代表的なものがテレビコマーシャルで、視聴者の目に印象強く残してもらうために様々な工夫をして訴えます。その結果視聴者は、このコマーシャルを受け入れていくこと、つまり、コマーシャルが与える共通した概念が視聴者に入っていって、その結果で行動することになりやすいのです。これがコマーシャルの狙いです。
同様にテレビから発する情報、それはある種の社会に共通する概念ですが、それに幼児期から慣れきっていくと、実際の社会で異なる事例問題に当面したとき、つまり、共通性でない特殊性事例に該当したときにどうなるか。それは簡単に予測できます。自分の原体験を基に、そこに個別の人生経験や環境条件を加味しているものが少なく、共通性優位で行動基準が出来上がっていますので、戸惑い、困惑する結果となります。

分からないということが大事
ある人が最近分からないことばかり発生すると言いました。その通りで、今の世の中は日本社会の共通概念だけでなく、世界の異なった共通概念と、そこに世界中の一人一人の個性が集まって動いて、その一人一人がそれぞれ噛み合わないで動いていくものですから、分からないことが変化として顕れてくるのは当たり前です。
加えて、現状の社会システムが、今後向うであろう社会に合致していないのですから、更に分からないことが続発します。ですからこれからは「分からないということを判断基準にする」ということが、変化の時代に生きる基準ではないかと思っています。
以上。

投稿者 lefthand : 2006年06月22日 07:55

コメント