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2005年07月05日

熊野と尊徳とトヨタ

YAMAMOTO・レター  環境×文化×経済 山本紀久雄
       2005年7月5日 熊野と尊徳とトヨタ


   

熊野古道
紀伊半島南東部の熊野地域。連なる山々と深い森。ここが昨年7月世界遺産「紀伊山地と霊場と参詣道」に認定されましたので、梅雨時期の晴れ間の数日、この熊野古道を歩いてまいりました。今は車という便利な交通手段がありますが、中世、ここが日本最大の霊場であった時代は、困難な道筋でありながらも、熊野詣は「蟻の熊野詣」と表されるほど多くの人々をこの地に向かわせ、様々な人々が、様々な思いを抱いて、様々な願いを込めて、途中で行き倒れになる危険を承知で歩いたのです。祈りの道、蘇りの道、それが熊野古道です。また、この道は辺境の山岳地帯にあるため、道案内が必要であったことから、その道案内を修験者がつとめ、この道案内の人を先達(せんだつ)と呼称しました。
   

今回の熊野古道歩きでも先達をお願いしましたが、今では様々な職業の方が先達をつとめています。今回お願いした先達は熊野古道の宿泊施設のご主人でして、苔むし、木の根が張り出した、昼なお暗い杉林の険しく狭く、いまだ鶯が鳴いている祈りの道、その古道を一緒に歩きながら道の成り立ちについて説明してくれましたが、その中でも「石畳」については成る程と思いました。
道に石畳を敷くことは、この地が多雨地帯であることから、豪雨によって土砂が流され、道が壊されるのを防ぐためであり、また、温暖な気候からすぐに草が茂ってしまい道としての機能を果たさなくなる可能性があるからだ、という先達の説明に納得しました。
つまり、この道が日本人の心を癒す道として役立ち、整備し残していくためには、石を使って人々の歩きを安全にしたいという、古人の創意工夫がつくりだした知恵によって石畳が存在しているのです。このような隠し味ともいうべき古人の多くの知恵が、熊野古道を世界文化遺産にしたこと、それを再認識させてくれた熊野古道歩きでした。

二宮尊徳
二宮尊徳という先人も我々に多くの教えをもたらしています。二宮尊徳は黒船が来て国内の物情騒然たる安政三年(1856)に亡くなくなりましたが、死後149年、今なおその業績を語られること多き人物です。一時は小中学校の校庭に必ず「薪を背負って本を読む二宮尊徳銅像」がある程でした。
尊徳は、幕末時の疲弊した封建農村社会にあって、郷里小田原藩栢山にはじまり、栃木の桜町の三カ村を復興させ、天明の再度にわたる大飢饉を楽々と乗り切る農村に変身させる業績を残し、さらに、奥州相馬十万石、人口10万人の藩を生食溢れる領地に変貌させたのです。これをみた幕府は「日光御神領」改革を尊徳に指示依頼したのです。しかし、すでに病に冒されていた尊徳は改革途中68歳で倒れたですが、今の時代でいえば県市町村行政財政健全化の再建請負人ともいうべき人物でした。

尊徳の改革方法は「仕法」であり、その原点は「分度」の確立でした。
「分度」とは一家の分度、一村の分度、一藩の分度、全国の分度を確立することです。つまり、収入と支出を確然たらしめた予算を確立することでした。
しかし、分度の目的は、入るを量って出を制するという緊縮政策でなく、入るものを出来るだけ多くし、それを社会生活の根源である土地と農民に投入することによって、土地と農民を豊かにすること、それを分度の目的においたことが成功の秘訣でした。
つまり、生産された財貨を、できるだけ消費生活で消費させずに、生産の場へ積極的に再投入し、これによって拡大再生産を封建社会の枠の中で実現させる、という方法が分度であり、その一連の改革方法を仕法と表したのです。
分度を原点とした仕法の第一は、まず該当地を徹底的に統計データで調べることでした。データが無きために尊徳から断られる町村も多々あった程です。第二は、学問だけに頼らず、自然に対する実体験知識の活用を主体とし、第三は尊徳が保有した優れた土木技術力と土地開発力であり、第四は複雑な損益計算と複利計算の手法を取り入れて、元利償還計画をつくり上げる計算力でした。特に第五としてあげられるのは、種金または仕法金、報徳金ともいう最初に必要で投入される元金、それを無利息で貸付できる財力が尊徳にあったことです。それは無類の勤勉家で、天才的な利殖家でもあった尊徳しかでき得ないことであったのですが、尊徳の仕法を受けようとするもの達は、無利息のお金を貸してくれる奇特な人がいるという噂を聞きつけ、それを目当てに尊徳の仕法を受けたいと交渉がはじまり、その交渉過程で仕法という改革方法を理解することにつながっていったのです。

この「仕法」とは、領主の財政再建の当然の方策でもありました。ある期間を区切って領主の分度を設定し、土地の収穫から領主に取り上げられる量を、いわば「括弧」の中に入れてしまうのですから、領主はその期間収入は増えず、一定の分度という予算の範囲で経営していかねばならないのです。ということは、仕法によって増収が図られたとしても、その増収分を土地の拡大再生産に再投入し、そのことに全力を集中できるような仕組み、それをまず固めていくことになります。
次に、農民に対しては、かっては耕地であったが、農村の衰亡により荒地化した土地を元に戻すという作業に取り掛からせます。また、その作業を農民一人ひとりの努力だけによって問題が解決できるという理解をさせること、つまり、本来の荒地を開墾するほど困難でないという「易き」から着手し、本来目的の「難事」へと進むという理解をさせて、その「易き」に全力を結集させる仕組みとしているのです。
これは、考えてみれば、生産する原場人間のやる気を起こすという人間心理をついた巧妙な方法ですが、それと共に一方の為政者には、一定の予算範囲内で経営するという自律を求めているのですから、現在の国県市町村が見習うべき当然の改革方法であったのです。
改革として、まず人のやる気を引き出し、その上で為政者に自律を求める、それを実践的に展開したところに二宮尊徳の偉大さの根源があります。

トヨタ自動車
6月末は株主総会のシーズンでした。いくつかの総会に出席してみましたが、各企業ごとの社風によって運営方法が異なり、それなりに面白い体験をしましたが、変わらないのは企業は社長が運営するものである、という事実です。社長によって企業は良くも悪くも、成長もするし、停滞もするのです。
世界のトヨタ自動車も社長が変わりました。その渡辺新社長へのインタビューが日経新聞に掲載され(2005.7.2)、その中で次のように述べています。
「開発や調達、生産、販売など各部門が抱えている兆候を『見える化』し、何が足りず何を補強すべきなのか明確にする」
この中の「見える化」発言に、トヨタは社長以下一つの仕組みでつながっていると思いました。なぜなら、社長の口から「見える化」という具体的なカイゼン手段方式が自然に表現されているからです。
トヨタのカイゼン運動は世界中で有名になりました。カイゼンという日本語がそのまま通用する言葉になっているほどです。カイゼンについては、トヨタの関係者の何人からお話しを伺ったこともあり、実際にトヨタに見学に行ったこともありますので、以下に少し補足してみます。
● トヨタは当たり前のことを根気よくする集団だ。
● 何に対しても疑問を持つことからはじめ、このために何故を五回繰り返す。
● 現状をそのままルール化し、次にそのルールを直すことからはじめる。
● 改善は小さな積み重ねだ。
● 全ての答えは現場にある。現地、現物、現実、現認。
トヨタの宣伝係ではありませんが、このような内容は世間に流布されていますし、その内容は別に事新しいものではありません。特に秘訣があるわけでなさそうです。渡辺新社長の「見える化」発言も、問題点を明らかにすることですから、経営者にとって当たり前のことです。これが世界一のトヨタ自動車経営のすすめ方なのです。

昔も今も変わらないセオリー
熊野古道を世界遺産にしたのは、古道石畳を整備した古人の気持ちが原点にあったからです。二宮尊徳が財政改革として行ったことは事新しい方法ではなく、農業生産現場の人たちのやる気を引き出す仕組つくりでした。トヨタの経営も新しいことではなく、当たり前のことを熱心にあきらめずに継続追求した結果、それが世界一にしたと思います。

投稿者 Master : 2005年07月05日 17:25

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